個人の自由の制限

 個人の自由を行使した影響が他者にまで及ぶ場合、個人の自由が一定の制限を受けるのはもちろんであるが、まずは何のために個人に対して自由の制限が必要か、という目的の正当性(必要性)が問われるべきであろう。

 コロナ対策の目的として、コロナウイルス感染症に対して、公共の利益・公共の福祉・公衆衛生・第三者の健康の保護に必要性がある。
 その目的を実現するために採用した、手段(制限)の具体的な有効性が問われるべきであろう。必要かつ最低限度な方法とやり方、必要かつ合理的な範囲、それ以外のより制約的でない代替え手段が不可能であることなど。

 その制限によって得られる具体的な利益と、その手段の行使によって個人に害を及ぼす具体的な不利益(マスクによる害やワクチンのリスク)と、個人が自由に対して制限がない場合に得られる具体的な利益を、総合的に比較衡量(天秤にかけて)して判断されるべきであろう。

 例えば、マスク未着用・ワクチン未接種などのコロナ対策が、短時間で直接に危険が第三者に発生するとは考えづらい、ゆえに第三者への危険(公衆衛生の棄損)を”予見する”または予測することになる。
 マスクの着用とワクチン接種による"期待される"具体的な効果と、客観的事実よりみて危険の発生(公衆衛生の棄損)する"具体的な予見"、で対策の利益は評価されることになるので、「期待される具体的な効果」と「予見される具体的な危険」は重要である。
 また、長期的に対策を続けた場合は、期待・予見と、比較衡量をする対象の各量は、時間的に変化するだろうと思われる。

 明治憲法制定以来、公共福祉のためであれば基本的人権を制限してもさしつかえないという主張がされた。
 これに対して、公共の福祉は基本的人権の制限のための原理ではなく、人権を行使または処理する際の、態度や心構えを規定したものにすぎないという反論も加えられている。
 前者は、基本的人権といえども決して絶対無制限ではないということに力点をおき、後者は、過去のわが国の経験にかんがみて、公共の福祉の名目のもとに再び人権に対して圧迫が加えられるのを防ごうとする趣旨からの主張である。
 人間は孤立した存在でない以上、つねに他人との権利・利益の調整が問題になり、その意味で、基本的人権にも、何らかの制限・限界が認められなければならないのは当然である。しかし、それは必要やむをえない最小限のものでなければならない。
 公共の福祉という「名」の下で、どのような「目的・目標」があるのか、どのような規制の「手段・方法」があるのか、どのような制限の「不利益・利益」があるのか、それは利益が上回る・必要最小限・代替え不可能のものか、それとも時の内閣や権力者や多数派の都合によってなされたものであるかを見極めなければならない。