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美学について 2週目 : なぜ現代アートはわかりにくいのか

美学について学ぶnote
今週は現代アートです。

現代アートのイメージとは、どのようなものでしょうか。
多種多様、よくわからない、草間彌生。。


ダミアンハースト『生者における死の物理的な不可逆さ』

出典 : CASIE MAG

村上隆「727」

出典 : This is media

ゴッホやフェルメールの絵画、ロダンの彫刻などの古典芸術と違い、なぜわかりにくいのでしょう?

今回は、芸術の定義を概観することでなぜわかりにくいのかを説明していきます。

まずは私たちの時代の芸術ではなく、そもそも芸術を定義づけた近代の芸術とは何かを問うことが必要でしょう。

芸術とは、剽窃であってはならない。つまりそれは、だれかある個人が、自分の手でつくったものであり、しかも過去に既にあるものを模倣したり剽窃したりするのではなく、かれの「独創」によるものでなくてはならない。そのような意味で、芸術とは「創造」なのである。そうして創造された作品は、たんなる器具のような有用性に意味がある品物ではなく、とりわけ便器のような卑俗な、さらには不道徳なものであってはならない。作品は、独創において他からくっきりと際だたせられた一個の自立的な存在として、それ自体に固有の意味と価値をもち、またその価値において、これを観賞する者の教養や趣味の陶冶をつうじて、あるべき人間性と道徳をたかめるものでなくてはならない。


現代アートの哲学


つまり、近代芸術とはオリジナリティがあり崇高で、観る者の教養を刺激するものであるということです。
今日私たちが持っている芸術観とはこのようなものではないかと思います。

フェルメール「水差しを持つ若い女性」
ミケランジェロ「キリストと十字架につけられた二人の泥棒」


1917年、ある事件が起こります。ニューヨークで開催されたアンデパンダン展という芸術展でのこと。
この芸術展では手数料さえ払えば、誰でも出展できるのが特徴です。

ここに「R.Mutt」と署名がされた男性用小便器(タイトル : 泉)が、出展されたのです!
出展したのはマルセル・デュシャン。「現代美術の父」「ダダイズムの父」と呼ばれる人物です。

デュシャン「泉」


これは明らかにオリジナリティもなければ、崇高でもなく、教養を刺激するものとは言いがい作品です。そもそも作品と呼べるのかもわかりません。
今まで近代芸術が標榜していた「美しい芸術」の真反対の存在でしょう。

なので、選考委員会の手によって展示を拒否されてしまいます。

先の引用を踏まえると、便器は不道徳で卑俗である。さらに単なる衛生器具であり剽窃だということでしょう。

ではなぜ、デュシャンが現代美術の父と呼ばれているのか。
それは芸術の考え方を知覚レベルから観念のレベルへと転換させたからです。

例えば、レンブラントの光の描き方やミケランジェロの教会壁画など、極められた技術や神話を描くことによる崇高さは誰が見ても明らかです。
つまり観ただけで凄いことが何となくでもわかります。

一方、便器は見ただけではなぜこれが芸術なのかがわかりません。
むしろ芸術ではないということがわかりそうです。

知覚レベルから観念のレベルへの転換とはつまり、新しい思考を作り出したという意味。

デュシャンは、便器が美術展から排除されたことに対して、『ザ・ブライド・マン』誌第二号(1917年5月)に次のような講義文を掲載しています。

マット氏の「泉」は不道徳ではない。浴槽が不道徳でないように。それは衛生器具屋のショウ・ウィンドーで毎日見ることのできる品物である。
マット氏が「泉」を自分の手でつくったか否か、はたいして重要なことではない。かれがそれを選んだのである。彼は生活の日常的な品物をとりあげ、あたらしい題名とあたらしい観点のもとでその有用な意味が消えさるように、それをならべたのである。つまり、あの物体に対するあたらしい思考をつくりだしたのだ。衛生器具についてはお笑い草である。アメリカがつくりだした芸術といえば、衛生器具と橋だけではないか。

『ザ・ブラインド・マン』誌第二号


つまりデュシャンをきっかけに芸術が知覚するものから、考えられるべきものとなったのです。

現代アートの分かりにくさとはつまり、近代芸術の考え方(芸術は美を知覚するべきもの)という考えのもとで作品を観賞、もしくは体験していることに起因しているのかもしれません。

一見して分からない作品に出会った時、その作品・作者の背景や時代の文脈を調べてみるとより理解が深まるかもしれません。


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