記憶が薄れて忘れてしまう前に、文字として記録しておくのは案外いいかもしれない。

実家には昔、柿の木と柘榴の木があった。

ちょうどお隣さんとの境に近い場所に植えられていたそれは、育ちすぎるとお隣さんの境界に引っかかってしまうから定期的に切り倒されていた。

それでも自然の力というものは凄くて、根元から切られたわけではない木々たちはそこそこに背を短くさせられても数年置きには実をたわわに蓄えていた。

柿の木は渋柿しか実らせなかった。そういう種類だったのだろう。なっても腐ってそのまま地面に落とすだけだったが秋口から冬始めの風物詩だった。枯れ木のような枝にオレンジ色の実が、寒空の下なっているあの風景は今思えば貴重な「日本の風景」といものだったのだと思う。

柿が実を腐らせれば本格的な冬の始まりで、小さかった頃の地元はそれなりに雪も降り積もっていたものだから柿の次は紅白の混じった寒椿。

育ってから実家に植えられていたあの寒椿は、寒椿としては珍しいカラーなのだと知った。雪が降り積もった中、決まって植物がないのにそこだけ奇麗に花を咲かせるものだから雪が深々と降る中に艶やかなで鮮明な色の深い葉の緑と紅白交じり、紅、白の椿が咲く様は一枚の切り取られた風景画のようで時を忘れて見入る程だった。まるでこの世の物ではないような。

あまり果物として一般的ではない柘榴は、実をつければ毎回食べられた。赤黒いような茹でた蛸のような色をしたそれを、割ると細かい透き通った赤い実が無数にある独特な形状は、幼心にちょっと不気味で苦手意識があった。

子供にしては味覚が子供らしくなかった私は、それでも柘榴の実を口に含むと苦手意識も不気味さもどうでもよくなって食べた。梅干しやレモンなどとはまた違った酸っぱさは、あの頃の私のお気に入りだった。

私が実家の庭の柘榴を食べれていたのは小学校高学年くらいまでだと思う。それでも未だにあの味が忘れられなくて、何かと健康食品として取り上げられる機会のたびに甘酸っぱくて酸味の強い記憶を口が思い出す。

その度思うのだ。

私の実家には昔柘榴の木があった。あぁ、柿の木も。渋柿で食べれたものではなかったけれど。梅の木もあった。たわわに実った梅は、祖母が生きていた時分は梅酒と梅シロップを作っていた。私は柘榴の方が好きだったし、なんだったら庭になっていた紫蘇でつけた紫蘇シロップを割ったジュースが好きだった。

アレルギーになってから、とんと味わえていない。


あれだけ身近だった木々たちは、年老いた両親が庭の手入れがもう厳しいと本格的に老いて何も出来なくなってしまう前にと全てを何年も昔に根元から切り倒して根も掘り起こして、失くしてしまった。普段の庭の手入れをしていたのは母で、一時期家庭菜園をしていて、玉ねぎや苺や芋も育てていた。とれたそれらは食卓に上ったし、苺が実ったら同級生が遊びついでにつまみに来た。家族だけでは消費が追い付かなくて。

実家の庭は、ネギもむかご(自然薯)も紫蘇も茗荷もよく取れる。まだこれらは現役だ。夏になるとソーメンのお供として庭で取ってきて出される。生まれた時から勝手に庭に生えていたもので、身近すぎて当たり前。今も昔もあるのに、実家の庭はどうしてこんなにも様変わりしたのだろうか。

思い出の中の庭と、実家に戻ってみる庭の、とめどない違和感。今見ている実家の庭の方が現実なのに思い出すのも思い返すのも無くなった木々たちと、その実の事ばかり。

木々の伐採や大掛かりな変更、剪定は父の役目だった。最後の数年は、力と体力が衰えた父の代わりに、弟が主に担っていた。本格的に木々を伐採したのは父一人。母にも無断で行って、しばらく母は不機嫌だった。

何故か定期的にふとした時に思い返しては食べたくなり口の中に柘榴の味がよみがえる。

食べようと思えば、手に入るのに。実際に口に含むと「これではない」と感じて少し食べただけですぐに興味をなくしてしまうのに。何故なんだろう。



昔、私の実家には柿の木と柘榴の木があった。梅の木も。

冬に咲く寒椿の木も。


もうそれら全て無くなって久しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?