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私の原点

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NHKの取材者たちの「原点」はどこに?ルーツを語った記事のマガジンです。
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#東日本大震災

兄弟の消えない後悔

2011年3月11日。 その日、私は11回目の誕生日を迎えていました。 宮城県の内陸部の小学校5年生で、学校が終わったら焼いたスポンジケーキに母と一緒に生クリームを塗って、誕生日ケーキを作る予定でした。 でも、大きな揺れがあって、各地に被害が出て、もちろんケーキを食べるどころではありませんでした。 それ以来ずっと、誕生日の「おめでとう」に違和感をもつようになりました。 そんな私は記者になり、今年初めて取材者として震災と向き合うことになり、2人の兄弟を取材

幼いころに通った教室が、12年前のあのことと私をもう一度つないでくれた

「石巻出身なの?震災は大丈夫だった?」 そう聞かれたときの私の決まり文句はこうだ。 「自宅は高台なので無事でした。両親の車が2台とも流されましたけど、たいしたことなかったです」 これでだいたい会話は終わる。それ以上言ってはいけない気がしていたから。 17年ぶりの再会「NHK仙台放送局でキャスターをしている、佐々木と申します。突然申し訳ありませんが…」 「もしかして成美ちゃん?」 電話をした先から聞こえてきたのは「アトリエ・コパン」という、宮城県の石巻市内で49年も続いて

「想定外」に抗え。あのとき無力だった19歳の私、いま一体何が伝えられるのだろうか

福島県・福島市出身で当時19歳だった私は、1年間通った予備校に最後のあいさつに行こうと、地元から隣の宮城県仙台市に向かっていた。 その途中、電車の中で感じた強い揺れ。 午後2時46分。 その後、何が起こっているのかもよく分からないまま、雪が舞う寒さの中をほかの乗客と一緒に近くの施設へと避難した。 その場所がどこだったのかすら記憶がない。私だけではなく、車で迎えに来てくれた父親もよく覚えていないというのだから、今考えるとかなりのパニック状態だったのだろう。 「想定外」

「東日本大震災を思い出してください!」その時、ことばで命を守れるか。NHKアナウンサーたちの10年

平日の午後、東京・渋谷のNHKのニューススタジオに、この日もアナウンサーの緊迫した声が響きました。 地震と津波が発生したことを想定した緊急報道訓練。大津波警報や津波警報などさまざまな想定で、頻繁に行われています。 この日もアナウンサーは、目の前のモニターに次々に表示される地震や津波のデータを読み上げながら、とるべき行動や注意点などを呼びかけていきます。 災害の危険が迫っているときに、NHKのアナウンサーがスタジオからみなさんに呼びかける、 「一刻も早く逃げてください!」

何も考えていなかった「僕」が当事者だった「彼女」と出会って3月11日が自分ごとになるまで、それぞれの10年

あの日の僕は、神奈川で暮らす高校1年生だった。特に被災地に深く思いをよせることもなく。 あれから10年。26歳の僕は岩手に住むNHKのディレクターで、東日本大震災の番組を作っている。 のん気そのものだった学生時代 高校時代の僕はラグビーの練習に明け暮れる毎日で、あの日、3月11日は練習で足を捻挫して整形外科で順番を待っていた。「試合に出られなくなったら嫌だなぁ」とか「当分は練習休めるな」などと思っていた午後、突然あの揺れがきた。 雑居ビル4階のクリニックはかなり揺れて