自分との距離が縮まる旅

こんばんは。笑うアマテラスの典子です。


2泊3日で、サンディエゴから2時間北に位置するロサンゼルスに用事がてら行ってきた。子連れでの遠出。わたしと娘と息子の3人旅。

家ではそれぞれが自由にしているので、あまり子供との密な時間は過ごしておらず、ずっと子供と一緒の時間を2日以上過ごしたのは久しぶり。行き道の車でもホテルでもロサンゼルスでも。同じ空間で3人で過ごす日々。

1時間でも車の運転が苦手なわたしにとって、2時間の長距離運転を1人ですることの精神的体力的な疲れは、行く前からどよーんとなるくらいだった。だから、意図的に何度も自分に暗示をかけていた。暗示と言うと笑われるかもだれけれど、以前ある人に教えてもらった方法。

それは、一つの行動後の自分を想像することで安心を先にえること。例えば、2時間後のホテルについてほっとしている自分を想像して安心する。用事を無事に終えて笑顔の自分を想像する。そんな感じで、数時間ごとほどの短い単位での未来の自分を想像して今感じている緊張や不安を”安心”に変える作業を地味にやっていった。

すると、なんやかやあっても、結局”大丈夫だった”という安心感を毎回えられてほっとするんだよね。

先にほっとしてしまうこと。

それが、今の先がみえない不安感で押しつぶされそうな自分を、そっと優しく掬ってくれる。

人生ってその繰り返しなんじゃないかと、そう思った。


意図的に自分の人生をなりたい未来に”今”つくりあげていく。


ささいな日常の出来事を、コツコツと地味にやっていく作業。それを不安に襲われそうになったら安心に逐一変えていく作業。

そんなことを感じた。


それと同時に、今回は、そこに、自分だけじゃなくて、子供と一緒に、どれだけ”今を楽しめるのか”を実験できた3日間だった。

車移動も聞きたい音楽一つ違う3人。以前だったら自分の我を通していた。いや、自分の我だけを通していて、子供の意見なんか聞かなかった。母親だからと言う理由だけで。

まあ、今でも、親だから、の特権をかざしているところもなきにしもあらずだけれども(笑)、以前に比べて、子供だから親の言うこと聞かないといけない。の態度はだいぶ薄れて、対一個人として、子供に接するようになれたなぁと実感した。

どこそこ行きたい。今行きたい。お母さん聞いて。を前は全部スルーしていた。一言目が、嫌や〜。あかん。行きたくない。の否定語ではじまる返事ばかり。そんな否定ばかりしている自分だという自覚も、自分しかみてなかったからわからなかった。

”都合よく”自分しかみていなかった。から、自分の意見は主張するけれど、相手、特に子供や身内の自分に近しい人の意見、ははなから聞かない自己中な性格。それにも、自分では気づかなかったのに。

いや、言い訳をするわけではないけれど、自分しかみる余裕がなかったから。俯瞰する余裕もそんな視野も、自分をみることさえできていなかった人生において、自分をみはじめたわたしには、そんな器用なことができるはずもなかった。

それが、少しずつ、自分のことを見つめれるようになってきて、自分のことがわかるようになってきて、自分の本音を目を背けずに見れるようになってきたら、だんだんと、周りのことにも気がつく余裕が生まれていった。

それは、一番身近にいる親やパートナーや子供ではなく、そこから少し離れた距離感に位置する人たちに対して。まだまだ、身内は自分に近すぎて、自分と相手の距離感をなかなか持てずにいたから。身内はある意味自分の一部的な、身勝手さがあって、”わかってくれるだろう”、”やってもらって当然”的な当たり前感で溢れていた。

それが、今回、子供と一緒に3日間過ごして、だいぶと、相手が自分の子供だろうが、身内だろうが、相手が自分のやりたいように動いてくれるという傲慢から少し俯瞰して相手を見れるようになって、いい意味で距離を保てることができた。相手は自分じゃないという至極当然で、でもそれが自分と距離が近い身内の場合、当たり前すぎて忘れてしまう、人として互いに尊敬の念で向き合えるような距離感。それをやっとわかるように俯瞰で物事をみれるようになってきた。

少し距離感がある尊敬する他人には、敬意を持って接することができるのに、家族になると、とたんに、やって当たり前。やってもらって当たり前。の世界になるあの不思議。

その当たり前が当たり前でないことに気づける時、気づけそうで気づけない身近な間柄の家族とよい距離感での関係性を築けた時、その先の一番近くて一番つかめない”自分との距離”が少しずつ縮まっていった気がしたよ。


そんなことを、ロサンゼルス最終日の深夜にラジオバージョンで発信してみた(笑)



少しずつ自分に近づいてきているのが嬉しいよ。