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(よんまいめ) よんぶんの、いち。

 校庭に、タイムカプセルを埋めたころ、僕らは10歳で、季節は秋だった。

 その中途半端な年頃の中途半端な時候に、そんなことをするはめになったのは、仲良しの仲間だったシンドウ君が隣の市に転校していくことになったからだ。
 隣の市までは、JRで40分。快速なら25分くらいで、今なら通勤圏としてすら、アリ、だな、と判断するくらいの距離なのに、当時の僕らには、それはずいぶんと遠く、もっと言えば永遠に隔たったところのように思えていたのだろう。
 10年後、二十歳になったら、四人でこれを掘り返しに来よう、と、10歳の僕らは厳粛に誓い合った。厳粛という言葉はまだ知らなかったけれど、あれはそれなりに厳粛な誓いであった。

 10年後、10歳の僕らが思うよりあっという間に10年後はやってきて、そして10歳の僕らが思うほど二十歳の僕らは大人ではなく、そして10歳の僕らが思ったようには、僕らはずっと一緒ではなかった。二十歳の秋の季節には、僕は正直タイムカプセルのことなどすっかり忘れていて、かろうじて時々連絡をとりあっていた佐久間がちらりとそんな話を持ち出して、ああそういえばそんなこともあったなと、電話口で笑って、そのままになった。シンドウと、健太とは、今どこで暮らしているのかすら、知らなかった。

 20年後、三十歳になった僕は、残業と休日出勤の波に飲み込まれて、たとえ覚えていたとしても、呑気に郷里にタイムカプセルを掘り返しにいく暇などなかった。覚えていなかった。佐久間とは時々飲んだ。たぶん佐久間も、覚えていなかった。

 22年と、8ヶ月後。つまり今日だ。僕は佐久間と、ここに立っている。
 校舎は建て替わり、玄関はオートロックになり、グラウンドはゴム製になって、ただ校庭には少し育った桜の木が、あの頃と変わらず立っている。育ったと言っても、ほんのすこしだ。あの頃もう大きな木だった桜にとって、22年と8ヶ月なんて、おそらくほんのすこしの時間だったのだ。おそらく、ほんの、ほんの少しの。
 桜は毎春咲いたのだろう。あれからの22年、桜の年月が僕のそれと同じ程度には順調であったとするのなら、22回の春、22回咲いて、22回散ったのだろう。そのほんの22回の春と秋は、僕らの背を伸ばし似合わぬスーツなど買わせ、恋をさせ、誤解をさせ、パスタを茹でさせ、茹ですぎさせ、電話をさせ、勢いで飲ませ、粗相をさせ、後悔をさせる、ほんの、ほんの少しの時間だ。それは僕らにとっても、ほんとうにほんの少しの時間だ。

 あいつ遅いな、と、佐久間が呟く。遅いな、と僕は答える。22年8ヶ月ぶりに、僕らはふるい友人と待ち合わせている。もう内容は思い出せないその、ほんの少し昔に埋めた、タイムカプセルを掘り返すために。
 感傷かな、と、佐久間が言った。あいつがどんな顔だったかも、あんまり思い出せないのに。感傷だな、と、僕は答える。けれど、それは22年8ヶ月ぶりに、僕らに必要な感傷だった。たとえどんなにほんの少しでも、22回の春と秋は、僕らのうちの4分の1を喪わせるのに充分な長さなのだ。パスタを茹ですぎる確率のように、それがありうる長さなのだ。

 今、校庭の向こう側から。久し振りに会うふるい友人が、小走りに来て、手を振っている。


札幌在住の俳優、松本直人さんとのコラボイベントのために書き下ろした(じゃないのもすこしある。)作品群を、ちょっとずつnoteにあげてゆこうと思います。順番ごちゃごちゃにあげますが、続き物ではないのでご安心ください。イベント音源の残っているものは、松本さんのYou Tubeで聴けますので、耳から派の方はこちらを(↓)どうぞ^_^


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