擬日記
目を閉じると、こちらへ指をさして𠮟りつけるような声、みたいな、その内容はわからないけど、脳内で再生される、ぼんやり、それでいてざらざらな、強く濁ったそれによって、なにかしらの嫌なことを言われている気分になってしまった。
目を閉じると、瞼の裏に映し出されるサイケデリックで安寧とは真逆の光景、いつかの、いくつかの嫌な思い出のまわりの空気をぐちゃぐちゃに混ぜた、人生のタイムラプスかと思うくらいには動的でかなり諄いアクション・ペインティング、みたいなそれによって、やはり、なにかしらの嫌なことを言われている気分になってしまった。
音は耳に痛く、光は目に痛い。かつてはあれだけ心地良かった毛布も、今となってはかくの如く濁って固くなり、不自然なぬるさを湛えている。時計を見た。前回それを見た時からは3分が経過していた。時間は心を休めない。僕は無愛想な時刻から視線を外して、そのまま上を見上げていた。そろそろ息継ぎをしたくなってくる頃合いだ。水面は、遥か上空にうっすらと煌めいているそれなのだろうか。本当に?実際はまったく関係のないだれかの欠片だったりはしないだろうか。いや、いずれにせよ、そもそもこの世界には搔いて進むための水がないのだ。考えるだけ無駄なこと、これからもずっと息継ぎはできないし、してもしなくても変わらない。時計を見た。前回それを見た時からは2分が経過していた。煌めきは僕とを距てる空虚のゆらぎに倣って一定の振動を繰り返している。僕は目を掩って1から数を数え始めた。脳内音声の中ではかなり大きいほうだ。搔き消されているのはどっちだろうか。
繰り返される通知音で、その度に、束の間の調和は再び崩壊へと手順を巻き戻していった。これから何を殺していったとしても、この嘔気だけは僕が死ぬまでずっとここにいるのだろう。そうしてずっと目を覚ましていた 僕は ふと 出し抜けに、大切な何かを思いついたように、毛布を遠くへ突き放して、スマホの電源を切り、ポケットにしまって、勢いをそのままに、玄関から身を乗り出していた。咄嗟にいつも履いている靴とは違う軽いそれを選んだからか、足元にある多少の違和感が度々囁きかけてきていた。
今日は星がよく見える。あれがオリオン座だから、これがカストルとポルックスだろう。見かけの等級は弟のポルックスのほうが明るいけど、兄のカストルがα星。あと、カストルは連星だ。それも、少なくとも6連星。観測精度の向上などによってこれから更に増える可能性も否定できない。
思えば、いつでも生存を掃いて捨てられるようになってから、背景は今までにない振舞いをし始めていた。あらゆるものごとを自分の死に結びつける癖がついてしまった。なんだ、全部、やろうと思えば容易く首を絞めるものではないか。たとえば、電車の音がする。窓が開いている。ここは何階だっただろうか。道路が見える。車が通り過ぎる。宛ら、風景は、見晴らしの良い処刑台だ。みんな、死を演出するに足る潜在能力を孕んでいる。しかしどれも満点には程遠い。みんな一長一短だ。それで?
大した考えごともしないうちに、すぐに暗さはその鳴りを潜めていき、3つ目の駅を見る頃には、朝は5時にさしかかろうとしていた。街の目の覚ます音が忙しなく鳴り響いている、それが聴こえる。見えるひとの数自体は大したものではないけど、場所柄もあって店が多いから、建物の内側でそれぞれの準備などをしているのだろう。気温はその日の最低点を乗り切ったらしく、薄明の空には標識の丸ゴシックがよく映えていた。道路の真ん中に立って、遮断器の写真を撮った。星はもう見えない。
それから、そのあとの僕は、河川敷を少し走り、程なくして、足の底がまた苛くなってきて、アスファルトをよたよたとひきずりながら、鍵の開いた例の部屋へと帰っていった。
河川敷を走っているときは、「河川敷を走っている状態」があまりにもそれらしかったので、少し笑えてきてしまった。