痛みは人の純度を高める
ここ数日、制作にかなりの時間を割いている。
私は本気で学がない。マジで美術のことなどなにも知らないので、好きな画家なども特にいなかった。
けど最近見つけたんですよ、作品のクオリティ、創造性、世界観、その作家自身の性格の捻くれ方から一本筋の通り具合まで本当に好みだった。
彼は昨日メキシコで亡くなったんだって。
別に前からそう思ってるけど、改めて死ぬまで描き続けようと思った。
昨日の晩に恋人が観ていたアニメ(たぶん映画)のキャラクターの台詞で「幸福は創造の敵だ」というものがあって印象的だった。
ところで物心つくかつかないか頃からずっと独りで絵を描いてきた。1年で辞めた高校で唯一大好きだった美術の先生は、当時の絵を見て「お前は絵描いて生きていけ」とまっすぐ眼を見て言ってくれた。
美術部には通わず遊び呆けて全然描かなかったのにも関わらず、そういう言葉のプレゼントを贈られて、今でも大切にしている。
「幸福は創造の敵」本当にその通りだ。幸せな時に描いた絵なんかハッキリ言って全部クソだった。なんの奥行きもないうすっぺらな絵。そんな半端なものを、自分の作品とは認めない。
そういった意味で、精神が極まっている時にしか絵は描けない。
一等気に入っている油画がある。何時間も泣きながら描いた絵だ。そういう時に描いた絵だけが孕める圧がしっかりと乗っていて、本当に気持ち悪くて最悪で美しい。
人は自分を守るために、他人の感情を全ては見ないように、無意識に目を背ける習性がある。
感情はここに在るのに、無視されて消えて無くなるみたいで不服なのだ。
だから物体にして目視させてお前らに認識させる目的で描いている。別に売れなくていい。
大衆芸術をやっているつもりはないし、今後やるつもりもない。そもそも美術に関する学がないのだから、売れる絵なんかそうそう描けない。
時として痛み激しさ虚無感といった感情の絵を描く。その感情を私に与えたお前がその絵を見た時、大抵は「可愛い」とか言うわけだ。
なんと、愉快なのかね。お前のせいで生まれた絵を、お前自身が「可愛い」の一言で雑に眺め捨てる姿からしか摂取できない栄養がある。
こうして文字に起こすと私は狂人だという自覚が一層濃くなる。
絵描きなんぞ狂人であって然るべきだ。
私は狂人です。
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