1971年8月15日

 昭和天皇が日本の敗戦を国民に告げた1945年8月15日から26年目のこの同じ日に、米国大統領ニクソンは、とつぜん「金とドルの交換停止」を世界に告知した。

 第二次世界大戦後の世界経済の基本的な再編は、すでに1944年に開催され決定されたブレトンウッズ体制によるものとされていた。二度の世界戦争をほとんど無傷でやりすごしたアメリカ合衆国は、終戦時には世界GDPの50%近くを占め、金の保有高は全世界の65%に達していた。
 それだけではない。20世紀前半において混迷したヨーロッパ(および日本)の経済停滞を尻目に、アメリカはその広大な国土と巨大な国内市場の中で、「新しい資本主義市場経済」を実験的に打ち建てていた。それはなによりも自動車産業の一大発展のうちに見い出せるだろう。自家用自動車を国民大衆の手の届く移動手段として商品化するためには、なによりも廉価でなければならない。ここにおいて建国以来のアメリカ産業の一大特色が遺憾なく発揮された。移民大国アメリカは、その産業化の初期から工場労働に従事する労働者の徴募に悩んでいた。肥沃な西部フロンテイアに個人的成功の機会があるあいだ、移民たちはつらい工場労働に甘んじることを極度に嫌悪したので、工場労働者の定着率の低さは慢性的なものであった。これを打開するためには、生産工程を機械化し労働の負荷を合理的に減少させ熟練労働者の不足をおぎなうあたらしい生産様式を開発し、終わりのない設備投資競争によって更新し続ける以外にはなかった。この結果、すでに第一次世界大戦が終わった時分には、アメリカの労働生産性は旧いヨーロッパに比較して超絶した位置を占めていた。
 この「新しい資本資本主義的生産様式」は近代生活上の一大革新となっていった。つまり電気洗濯機や電気冷蔵庫、ラジオ(ついにはテレビ)や電話の普及など、国民大衆向けの耐久消費財による膨大な新市場を開拓していった。こうしてアメリカン・ウェイ・オブ・ライフは世界中の憧憬となった。

 二度の世界戦争は、欧州の資本主義大国の富を蕩尽させただけではなかった。勝利者(イギリス・フランス)も敗者(ドイツ)もアメリカからの借款なしには戦争を完遂できなかったし、また灰塵に帰した戦争の惨禍からの復興など問題にもならなかった。ブレントンウッズ会議においてイギリス代表のケインズがいかに熱弁を振るっても、アメリカ代表ホワイト(とその陰に陣取るモルガンはじめ銀行団)の咳払いひとつで無視されるのはまったくやむをえないというものだった。かくして超絶したドルの威信によってかつての金本位制度を代替させるというアメリカの慇懃無礼な提言を欧州勢はただただ呑み込む以外にはなかった。資本主義世界市場はポンドからドルの支配への移行を受容した。ドルこそが世界の基軸通貨であると承認されたのである。しかしこのとき、このドルの支配体制がわずか四分の一世紀にしてほころび始めるとは誰にも予想できなかった。アメリカのありあまる資本は、世界市場の再編成を欲していた。マーシャルプランは、なにもアメリカの慈悲心によるものなどではなく、まったくアメリカの国益上避けられない宿命でもあり、かれらにしてみれば必要悪であった。かつての列強諸国は例外なく貧乏になり、戦後世界においては、それぞれの国内での「大衆的社会主義運動」の一大興隆はもはや無視できないほどのものとなっていた。アメリカは、これを放置すれば、やがてアメリカ自身が「一国資本主義」となって孤立するかもしれないことを怖れたのである。アメリカは、「新しい資本主義経済」に同盟諸国を誘導するために、大量生産のための技術革新や現代的経営手法を惜しげなく供与していった。したがって国土が荒廃し産業的焼け野原になった西ドイツや日本が、いちはやく「奇跡の成長」をなしとげたことはおどろくにはあたらない。両国はすなおにアメリカン・ウェイを受容する以外の選択肢はなかったのである。

 こうして1946年から60年代いっぱいにかけて、資本主義世界経済には新しく活が入れられ、西側世界は未曽有の経済成長をとげていった。大量生産はそれをさばくための世界市場を求める。果てしない輸出競争は、また革新のための新規投資を増大させ、それはしばしば輸入超過による決済通貨の不足に帰結する。そういうわけで、ドルに対する需要は天井知らずのものとなり、各国は不足するドルの供給をアメリカ(IMFや世界銀行)に懇願するとともに、輸入のための貴重なドルは慎重に割り当てられるべきものとなった。

 これらすべての事象をつうじて発展全体を総括したのは、歴史の一般法則であるところの「不均等発展」であった。すなわちドイツや日本は、この時代の優等生であり、両国は世界戦争を経済戦争として継続することで一等地を占めるまでになった。フランスやその他の諸国もなんとかしてこの巨大な発展の波から振り落とされまいとあらゆる努力と手立てを尽くした。1950年代から1960年代前半まではこうしてパックスアメリカーナの絶頂期となった。ケネデイの暗殺を受けて大統領となったジョンソンは、いよいよ年来の主張であった「偉大な社会」の建設を約束した。それによれば、今後のアメリカには、もはや飢える者はなく、アメリカは見たこともない高度の社会福祉国家に移行し、国民は等しく安穏な生涯を保障される、というのであった。
 アメリカは、19世紀後半から20世紀前半において、それ自体が不均等発展の法則の享受者であったのだが、第二次世界大戦後においては次第にその犠牲者となっていった。すなわち旧来の経済構造を一新した新しい挑戦者たちがあらわれ、これら諸国は開放的なアメリカ市場をはじめ世界市場を貪欲に侵食していった。そのようにして1960年代後半には、アメリカの貿易収支はまったく不振に陥り、資金収支は危険な状態に陥っていった。これに拍車をかけたのが、泥沼化したベトナム戦争であった。東南アジアの小国の紛争に介入したための巨額な出血によって、ついにアメリカの経常収支に赤信号が灯ったのである。この時分から世界交易におけるアメリカの不均衡は目に余るものとなった。もはや「偉大な社会」どころではなかった。支払い超過によるドルの過剰はまずユーロ・ダラーとしてヨーロッパに滞留しつづけた。口やかましいフランスは、ドルではなく金による決済を迫り続け、こうした学者たちには金本位制への復帰を主張する者たちまでがあらわれた。かつて賛美の的であったドルはいまや国際金融における不信の対象となった。

 ベトナム戦争からの名誉ある撤退と悪化するドル危機の解決はニクソンの二大政策課題となった。かれはこの悩ましい状態になんとしてもけりをつけなければならなかった。ニクソンはしかし、いかにもアメリカ流にこの難題をやってのけた。
 60年代以降継続した「中ソ論争」に目を付けた冷徹な現実主義者キッシンジャーは、「敵の敵は味方」とばかりに、中国への隠密的接近を実現し、経済的打開策を求めていた毛沢東と周恩来を「アメリカとの和解」に引き込んだ。見返りは、アメリカのベトナム戦争からの名誉ある撤退への協力であった。北ベトナムは否応なくパリ和平会議を受容することとなった。中国はアメリカの承認によって国際連合に加盟しただけではなく、台湾がアメリカによって追放されたおかげで、いきなり常任理事国(五大国)として国際社会に登場した。非情なキッシンジャーにとっては朝飯前のことであった。

 もうひとつの課題は、まことにカウボーイ流に実行された。ニクソンは、世界経済の価値体系を一元的に保証する金・ドル体制を終わらせることは、なによりアメリカ国民の自尊心を傷つけることになりはしないかと悩んだ末に、これを「攻勢的」にやってのけることを思いついたのである。もしもドルと金との一定率の交換を保証するという原則を反故にしたらどうでなるであろう。世界はおどろくだろうが、しかし何の代替策もない以上、世界は金という足かせを取っ払ったドルを以前同様に受け入れる以外の選択肢はないであろう、とかれは考えた。そこでこの歴史的敗北を認める代わりに、金に束縛されないアメリカドルの「自由」を訴えるというのはどうであろう。なるほどアメリカの経済的地位は相対的には弱くなったのであろうが、しかし依然としてアメリカの絶対的強さは続くであろう。同盟諸国は驚くだろうがしかし結局はアメリカの決断を受け入れざるをえないにちがいない。あくまでかっこよく「新体制」への移行を宣言すればよいのだ。ついでに、実質的なドルの切り下げによって、貿易収支も健全な回復軌道に乗るだろう。
 かくてニクソンは新奇の御託宣を世界に告げた。案の定、西側同盟諸国わけてもヨーロッパ諸国は腰を抜かさんばかりであった。宣言は文字通り前触れもなしに実行されたので、日本はまるで呆けたようにぽかんと口をあけたままうろたえるばかりだった。欧州勢はさっそくアメリカに説明を求めた。「一体全体、アメリカはドルという基軸通貨をどうするつもりなのか?」
招聘された財務長官コールは、口やかましいヨーロッパの金融家たちを前にして、ごう然と言い放って沈黙させた。「ドルはたしかにわたしたちの通貨だが、これは君たちの問題だ」かくて、新体制は釣りのウキ(フロート)制度と呼ばれることになった。世界は絶対的価値尺度をあきらめなければならない。各国の通貨は、それぞれの競争力(生産性)の相対的秤量の下で、世界経済に自分の位置を占めるであろう。これが経済的モーゼのあたらしい神託であった。

 こうしてアメリカ・ドルはとほうもない「行動の自由」を手に入れた。
一方で、アメリカは依然として勝手気ままな自国発行の通貨で世界中から好きなものを好きなだけ買い付ける自由を享受し続けた。基軸通貨国であり続けることで発行原価はほとんどゼロであった。この特権(シニョレ)は依然としてアメリカの独占物であった。したがって他方では、残余の国々は依然として世界交易のつけを調整するためにはIMFの扉を叩く以外に方法はなく、ドルへの依存を止める「自由」は与えられなかった。周期的に悪化するばかりの経常収支の穴埋めは、「アメリカへの投資」、主要にはアメリカ財務省証券(国債)の購入によって埋め合わされる。90年代以降には、これに加えて、アメリカの株式市場や債券市場にたいする海外諸国からの投資が加わることで、アメリカの巨大な赤字は埋め合わされていった。世界中の債権保有者たちはあたらしい悩みを抱えることになった。というのは、アメリカはいざとなればこれらの債務をドルの切り下げによって相殺する徳政令を発しかねないという恐怖がついてまわったからである。1985年のプラザ合意以降の超円高の演出はまさにこのことを意味していた。働きアリの日本が積み上げたアメリカ国債は一夜にしてその価値を半減させたのである!

 しかし事物には裏面もある。ドルの放埓なふるまいはきわめて伝染性のつよい難病でもあった。すでに1970年ごろには、戦後世界を領導した資本主義世界経済の高度成長は終焉のきざしを見せ、世界はその後25年間というもの、停滞的な低成長の長いトンネルに入っていった。世界市場はそのルールどおりに進行すれば、無政府的な競争の闘争場裏であり、決着は結局ところそれぞれの生産性によって付けられる運命にある。しかしそれを放置すれば、つまりは資本主義世界経済の鎖はそのもっとも弱い部分から破砕されていくという無慈悲な性格を帯びている。そこで各国はあれやこれやの手段をとって貿易上の赤字を解消する手立てを取り出す。目立たない輸入制限措置や輸出補助金の手当てさらには為替の切り下げへの誘導は、世界市場における自由貿易の大合唱の傍らで執拗に試みられることになる。ついに、各国は問題の根源に需給ギャップを見出す。戦後の社会主義的運動への対抗策として一様に採られた福祉国家建設の約束がある以上、あるいは長く続いた成長の季節にすっかりなじんだ労使慣行による賃金上昇圧力に異を唱えるにはそれ相当の勇気が要った。間違えれば、旧来の支配層はダメを押されかねないであろう。そこで各国は、世界交易では解消されない需給ギャップを埋めるためのもうひとつの方策に肩入れすることになった。世界の全般的成長の時代には回避された債務国家への道に踏み込んだのである。追加的国内需要によって均衡を取るための唯一の方策は、国債発行による需要の創出である。そういうわけで、長く回避されてきた国債発行はもはや矛盾解消のための唯一の方策として大々的に展開されることになった。世界主要国の国債発行の歴史をグラフに取ればそれは歴然である。かくして現代の主要国は例外なく「債務国家」になり果てている。つまり基軸通貨国たりえない各国は、「国債発行の自由」という自慰行為を見出していった。そしてそのことこそが現代世界を特徴づける後期資本主義の最大の特質のひとつとなった。
 さてそれでも鎖はもっとも弱い環で破れる。ここでの役回りはまずイギリスによって演じられた。すでに資本の利潤率の全般的低下があきらかとなっていたこの時代に、イギリスの産業的老人病は限界に達していた。サッチャーが登場したのはこのときである。(1979年)下町の小間物屋の勤勉な娘であったサッチャーは混迷する政治の世界に抗って鉄の女として出現した。彼女は、ポンドの没落からの救済のためには、安逸な利己的主張をがなり立て合う救いがたいイギリス病から即刻脱却しなければならない、働かざる者食うべからずと宣言したのであった。手を付けたのは、伝統的なイギリス最大の炭鉱労働組合との対決と粉砕であった。彼女は、国有事業の民営化を徹底し、もうからない自動車産業などは外国資本に売り払っても雇用が確保されればそれでよいではないかと主張した。サッチャーは、なによりもそのイギリスがもっとも得意とする国際金融分野に目を付けた。1973年、第四次中東戦争をきっかけとしてサウジアラビアが主導するOPECの登場は、原油価格を暴騰させる政策に訴えるに及んで、世界経済を震撼させた。結果として膨大なオイルマネーが中東産油国に滞留し、このマネーの利殖のための方策が講じられるべきであった。ロンドン・シテイーこそがその革命的な役割を果たすべきであり、それに付随して保険業分野その他の金融業務が繁茂するであろう。このビッグバンこそがイギリス再生のための起爆剤になるであろうと、この経済ジャンヌダルクは飽くことなく説いて回ったのである。
 アメリカはこの事態を指を加えて見ているわけにはいかなかった。レーガンがこれに続いた(1981年)。シテイーに対抗するためにホワイトハウスの裏木戸の回転ドアはウヲール街に直結することになった。オイルマネー(ドル)はなによりもウオール街に還流させなければならぬ。イギリスの炭鉱組合に代わる標的は、アメリカであってみれば最強の労働組合である航空管制組合のストライキを壊滅させることからはじめられた。
 こうして資本の反革命が時代の風潮となった。資本の利潤率の低落は、実質賃金を抑制することによって代償されるという旗印がいまや隠然と掲げられた。70年代以降のアメリカの実質賃金のグラフ曲線は、過去数十年間に何が起きたかを歴然と見せつける。所得および資産格差の時代は新自由主義と名付けられた一連のイデオロギー攻勢によって世界を席巻するようになったであろう。

 いずれにせよ、ニクソンショックは、巨大な影響を現代にまで及ぼしていることはたしかである。それは当事者たちの思惑を超えて深刻な意味をもっていた。かんたんにいえば、あらゆる価値は相対化されたのである。インフレ時代でもあった70年代は、ニクソンによって自嘲的に語られた。「われわれは例外なくケインズ主義者だ」と。しかし資本主義経済はそれではすまなかった。反動は、新自由主義というあたらしいイデオロギーを生み出し、現代資本主義は貨幣を堕落させることによって延命のあたらしい手法を見いだした。アメリカは率先してその旗を振った。アメリカ資本主義は金融資本主義の方へと舵を切ったのである。軍事技術から生まれた情報通信技術が惜しげもなく公開されていった背景には、理由があった。それはG-G’つまり「カネがカネを生む新しい資本主義時代」を呼び寄せ、高利貸的古色を粉飾するための新規の革命的手段と映ったのである。実物経済を数倍する滞留貨幣を世界に投じ、油断なく瞬時のうちに超過利潤を求め、またそれにあずかるためには、世界をとことん情報化の網に結び付けておく必要があるではないか、というわけである。こうして情報はついに実物経済を押しのけてもっとも脚光を浴びる商品となった。資本主義はいわば最後の扉を開け放ったのである。

 見方を変えれば、これはついに貨幣という物神が、ふつうの人々の暮らしから剥離したことを意味する。経済の一般的動向と貨幣経済のありようが乖離したことは世界の金融市場がいまや賭場としての自立をとげたことを意味する。信用世界は、実物経済の道程から自立してひとつの幻想的なゲーム世界を構築してしまったわけである。その痛烈な体験が2008年のリーマンショックであった。
 じつのところ、世界経済のまじめな長期の観察によれば、近代資本主義には短期的(3~5年)あるいは中期的(10年)な景気循環のほかに、拡大と停滞によって区分される50年ほどの周期をもつ「超長期的な波動」が存在していることがたしかめられている。その意味では、1946年以降1970年前後までは拡大波動の25年間であった。1970年代に陥った資本主義世界経済の停滞(低成長)はじつに90年代前半まで続いたのであり、95年前後には再度の拡張局面を迎えていた。もっともこの拡張波動を真に体現できたのは、2つの国であった。ひとつは情報産業に活路を見出し、金融資本主義に傾斜していったアメリカであり、もうひとつは世界中に起きた新興諸国の先頭を走った大陸中国の爆発的な成長であった。この経済的な双子星は、その役割こそちがえ、世界経済の上昇のための起爆剤の役割を果たしたことはたしかであり、リーマンショックは驚天動地な信用世界の崩壊だったにもかかわらず、それが辛うじて封じられたのは95年以降の世界の実物経済の実質的成長があったからにほかならない。
 しかしもしもこうした見方に一定の信憑があるとするならば、ふたたび膨れ上がった信用世界の次なる危機は、過去の単純な繰り返しではない空恐ろしさを予感させる。というのは、1995年以降の世界経済の拡大局面は、誰しも気づき始めているように、すでに四分の一世紀(25年)を過ぎてい変調の兆しにあり、理由の如何にかかわらず次に襲ってくる経済危機が1928年以降の世界大恐慌の下での金融危機になるざるを得ない保証はないからである。日本はバブル経済の崩壊以降の長期デフレ経済の下で呻吟したために、世界経済の拡大局面の間も、いわば貧乏ゆすりをしつづけ、「失われた30年間」としてこの時期をやりすごしてしまった。それを一気に取り戻そうとしたのが、アベノミクスの異次元の挑戦だったのだが、時代はすでにうつむきかげんの季節に入っていたので、ここにきては空回りを強いられているのである。しかしこれは別の話である。































































































 









































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