東京都知事選挙の反省

2020年7月5日投票の東京都知事選挙は、現職が当選した。人生を嘘で塗り固めた人が再選した。そして野党の努力は、そのような人の突破力に砕け散った。それ以前に、野党として政治的な力を結集できなかった。遠心力が働き、候補者が乱立するという実に無様な状況だった。戦う前から既に負けていた。

戦う前に負けている人達がすることは何か。幻想を作り出し、それにすがり付き、非現実的な攻勢を期待することである。ツイッターにはそのような幻想で溢れかえり、山本太郎氏や宇都宮けんじ氏はいつの間にかハリウッドスターやオリンピック選手並の強者であるかのような錯覚を基に描かれていた。幻想の中で最も酷いものは、過去の東京都知事選挙において、無所属候補者が自民党候補者に圧勝したため、今回も同様のことが起きるというものだった。無所属候補者の例として、青島幸男氏が挙げられた。氏は日本トップクラスに有名で、多くの人が好意的に感じていて、口が上手く、参議院議員経験が26年あり、権力と対峙していないにもかかわらず、人々が彼は権力に立ち向かっていると勘違いさせる能力があった。そして、それらよりも重要なことは、都知事選挙が行われた1995年当時は、超高齢社会ではなかったということである。若い人々が多数であり、変化に肯定的だった。現在とは全く状況が違うのである。

幻想にすがり付きはしなかった人でも、山本太郎氏と宇都宮けんじ氏の両方を応援するツイートを垂れ流し、政治闘争に対する無知さを曝け出していた。選挙という、誰も肉体的に傷付かない取組みしか体験していない我々は、政治闘争の本質を完全に忘れ去り、極度の平和ボケに陥っている。河井克行前法務大臣が、約100人に約2,600万円をばら撒き、買収容疑で逮捕された事件を多くの日本人が目の当たりにし、政治闘争の本質を垣間見た最中に、その恐ろしさを感じていないかのような言動をする。政治に一定程度以上の関心を寄せている有識者でもその体たらくである。

体たらく野党とその支持者に愛想を尽かし、自民党や与党化した日本維新の会に入党した現職政治家は、低レベルの野党批判に精を出している始末である。

東京都知事選挙が炙り出した現実は、あまりにも醜く、絶望そのものである。

東京都民だけでなく、ほぼ全ての日本人が「2021年の東京オリンピック開催は無理っしょ」と思っているだろう。そして恐らく開催できないだろう。しかし東京都民は、2021年の東京オリンピック開催に向けて邁進する人を都知事に選んだのである。

トランプがアメリカ大統領に就任してしまう前から「ポスト・トゥルースにどう対応するか?」と盛んに議論されていた。日本でも同様の問題があるが、それ以上に重大な問題が発生している。大半の人が求めていることと違うことをしようとする人を巨大権力者として選んでしまうという超ポピュリズム問題である。

今までは、大半の人が求めていることと違うことをしようとする人を権力者として選ぶことは、エリート主義であった。適切な政策を選択できない大衆の意見を無視することで、エリートが適切な政策を実施し、結果として社会全体の維持、改善を実現する考え方である。歴史的にどの程度その取組みが成功したのかは分からないが、東京都知事選挙の結果や前回の参議院議員選挙の結果からすると、エリート主義が日本に必要だと痛感している。古い発想に囚われた人々が確実に投票した結果、金権政治を続ける自民党が生き残るだけでなく、政治的力を増やしてしまったことで、汚職事件が多発した。賭け麻雀を頻繁にしていた黒川弘務検事長が、逮捕もされず、退職金も減額されずに引退したのでは、日本は法治国家ではない。

嘘と威勢の良い言葉だけで人々を騙すポピュリストが、社会全体に害を齎している。トランプ大統領然り、安倍晋三首相然り、東京都知事然り、吉村洋文大阪府知事然り。しかし多くの有識者、支持者は、彼らに違う行動を求めている。しかし彼らを権力の座に留めておこうとする(トランプは権力の座から降ろされそうな状況ではある)。実に摩訶不思議な状況である。

民主主義の機能不全と不全さを支える有権者。その構図を強力に支えるマスコミ。絶望のトライアングルが年々強化されている。その結果、多くの社会的弱者が自殺に追い込まれる。長時間低賃金労働で、実質的に奴隷状態に置かれ続ける。もし仮にこの状況が、日本を弱体化させたいという誰かの仕業であれば、実に見事な謀略である。しかし現実的には、人々の集団的意思、集団的行動の結果として、自分達で自分達の首を絞めているだけなのだろう。

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