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パチスロ依存症の白夜書房時代・6/13

当時の名波さんには、たくさんのファンの方々から
応援のメッセージや、優良ホールの情報が届いていたと思う
アドレスが白夜書房のドメインだったから、というわけではないだろうが
私が翌日、編集部に出勤したときには、もうお返事が届いていた

その時、私が何を名波さん宛にメールしたのか
今となっては、その内容は全く覚えてはいないし
どんな内容のお返事だったのかも、もう忘れてしまったが
「私という人間が、パニック7編集部に居るんだ」ということは
この時、名波さんに覚えて頂けたのだと思う

しかし何よりも、当時の名波さんは、全国をたったひとりで
車で移動し、パチスロを打つ生活の真っ最中…
それすなわち、相当な孤独感の中にあったと思う
一日24時間のうち、言葉を発したのは、それこそコンビニで
「温めてください」のひと言だけ、なんて日もあったに違いない

少しでも、メールでだけであっても
言葉を送ることが、当時の名波さんに一服の清涼感をあたえられたなら…
そんな気持ちでメールをし、その後は頻繁にメールを交わすようになった

漫画『パチスロひとり旅』は、私が在籍していた間
別パニの読者ハガキによるアンケートで、常に人気投票第1位であった
目算通り、別パニの目玉企画となった

漫画のほうも人気であったが、巻末には名波さんがライターを務める
記事版の『パチスロひとり旅』もあり
最初はデスク(雑誌の制作主任)がページづくりをしていたのが
ある日、突然私にその担当を任せる、との話が来た

当然、デスクの仕事はハードかつタイトなので
叩き台を作って、誰かほかの編集部員に禅譲する予定であったのだろうが
まさか私が指名されるとは思っていなかった
ラッキーもあったとは思うが、名波さん本人から
希望があったのかもしれないと思うと、本当に嬉しい気持ちになった

記事面も担当するということは、外注のデザイナーさんとも
折衝するという、編集者としてはまたひとつのステップアップの機会になる
4ページにわたる4色ページ(フルカラーのページ)の担当になることは
それすなわち、ひとかどの編集部員になれたということだ
全くの未熟者の段階で、大変な仕事になることを予想したが
それまでの名波さんとの(仕事の話は抜きな)メールのやりとりをしていたことで
何とか初回からいいページを作ることができ
読者アンケートの人気も上々であった

ここから、名波さんとの二人三脚が始まった
その時期は、2000年の6月…そう、全国で唯一パチスロの設置が認可されていなかった
三重県に、パチスロの導入が決定した頃。ついに私は
編集長から「三重県への出張と、名波さんへの密着取材」を
命じられたのである

つづく

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