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パチスロ依存症の白夜書房時代・11/13

私は、いわゆる「出社拒否」のまま
会社支給の通勤定期券を、郵送にて返却し
白夜書房から「フェードアウト」した

この間、会社を始め、仲の良かった先輩編集部員
そして、名波さんからも携帯電話に幾度も連絡が入ったのだが
留守電のメッセージすら、私は聞かずにいた
それが、2001年6月の出来事である

私はこの頃、無職状態でひとり、ホールに出掛けていた
『アイムエンジェルホワイト』(オリンピア)、『フィーバークイーン1』(大同)を
ただただ、なんとなく打っていた

7月からは、近所のパチンコ店で、アルバイトを始めた
当時、すでに私は26歳だった

アルバイト採用は、すんなりと決まったが
その期間も、私は出版業界、編集者としての再就職活動を続けた

秋も深まったころ、新宿区に自社ビルを構える、某出版社の
編集アルバイトに応募し、合格したのだが
未だに編集者自身でDTP入稿しない、前代的な編集部であったため、すぐに退職した
もっと面接時に、編集部内を観察、もしくは社内の見学を私が申し出ていれば
事前に辞退できたのだが…
この頃の最新台は『コンチ4X』(アルゼ)であった

ここからは、今となっては言うもはばかられる、にわかパチプロとしての生活が始まった
月に30万を目標に、連日パチンコ店に通うことになる
2~3店舗を、打たない日(打てる状況ではない日)であっても
ひと月30日31日、来る日も来る日も朝イチ、夕方、閉店前とホールに出向き、データをチェックして
当時、ホールを席巻していた爆裂系のAT機には一切手を出さず
ノーマルの『ハナハナ30』『オアシス』『シオラー30』(いずれもパイオニア)や
冒険してみたところで『キングパルサー』(山佐)などを打ち
なんとか凌ぐことができた

しかし、明日をも知れぬ浮き草生活な上に、当時のパチスロでこの程度の稼ぎでは
真面目にどこかの企業に勤めていたほうが、将来の保障を含めれば
その差は、日に日に開いていくばかりである
この頃の私は、はっきり言って「ただ生きているだけ」の毎日だった

そんな無為な日々を過ごしていたある日の夜、21時過ぎくらいであったろうか
電話帳登録のない番号から、私の携帯電話に着信があった

そのような電話になど、普段は一切出ないのだが
その時はなんとなく、とりあえず出てみることにした

すると…その電話は、すでに私の電話帳から削除していた
白夜書房の編集部からの電話であった

その翌日の午後、私は白夜書房の敷居を
久々にまたぐことになる

つづく

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