倫理

 倫理的基準とは何だろう。女性は性的に見られる衣服を着用して外に出て街を歩けば女性が性的に見られたと仮定した場合に、私達は女性側を咎めて性的に見られることを目的にして衣服を選んだからだと女性を咎める。しかし、女性が街を歩いて、男性が女性から性的な魅力を感じて男性が女性を暴行した場合に、私達は男性が悪くて女性を被害者として見なすはずだ。私は、この倫理的基準を否定するつもりはなく、私達には目に見えない領域で私達は言葉や意識では客観的には自覚できずとも、私達の中には明確に一貫した倫理的基準があることを肯定するために述べていきたい。まず倫理には、加害を行為した者と被害を被った者を基準に善と悪が区別される。それは、女性が性的な衣服を着用してあらゆる男性を性的な感情にさせたという理由によって、その女性は男性を性的な目線を目的に性的に振る舞ったので加害者である。しかし、それでは、男性にとって異性という性的魅力を持つ全ての女性は、男性にとって性的願望を高めさせるので、もし女性に暴行を加えたとしてもそれは加害行為にならないのだろうか。例えば、それは、こう言い換えられる。ケーキが置いてあって、私にとってあまりにも美味しそうに見えたので食べたいという感情を抱くと同時に、その他人が所有権を持つケーキに手を出してしまって食べた場合と仮定したい。ケーキは、他者の所有権を有している所有物なので、私達はケーキを食べて罪悪感を感じてしまうはずだ。それと同じように、女性も、自己の身体に対して所有権を有しているので、女性の同意なしに、女性に対して意志に背く行為を強制する強制力を働かせるのは悪なのだろうか。それは、女性による意志の自由を尊重するべきという正当性は正しく、女性が同意をしないので男性が強制力を働かせて女性を暴力によって圧倒することで男性の意志のみを女性に反映した。そこには、女性の同意はなく、男性の意志のみが反映しており、女性が望まない行為だとわかってしているので悪と言えるはずだ。この悪の場合は、女性を所有物やモノとして認識するのではなくて、対等な関係でのみ契約を交わし合う人間という存在としてそこに存在している。ただし、人間は、対等な立場と双方同じ知識が共有された条件でのみ、人間にとってその契約は正当性を持つことになり、双方が対等な立場と同じ知識を共有していない場合はその知識の差と立場によって搾取されてしまうので正当性を発揮しない。なぜなら、人間には、契約を交わすことを限定した場合に対等な関係を公正と見做す価値観があり、その対等を公正と見做す理由として、双方の力関係や知識の差によって相手の意志が歯向かうことができなかったりやまた知識の差によって相手の意志を騙してコントロールしようとするのは、人間にとって相手の自律した意志が自ら望んで承諾していないので、相手の自律した意志を知識の差を意図的に作って意図的にコントロールしようとする行為も相手の自律した意志を自分の思惑通りに動かそうとするので悪である。そして、この知識の差によって、相手に承諾を得ようとするのは、人間には先天的に相手と同じ対等な条件のもとで契約を結ぶべきという倫理観があるために、相手に少ない知識しか与えず相手の自律した意志をコントロールして自分の利益になるように仕向けるのも、倫理的正当性を与えるためだろう。しかし、その行為も、自律した相手をコントロールしようとしているので悪である。また立場が違う人間同士が自分に都合がよく立場の低い相手側は不利な条件を与えるのも、上記と同様に悪だろう。また嘘をつく行為も、相手の自律した意志を歪めることになるので悪である。つまり、カントの言う他者の人格を重んじることが人間にとって倫理と言えるはずだろう。しかし、互いに対等かつ同じ知識が共有されていれば、自分と相手が互いに契約した結果として相手の命を奪う行為は正当化されるだろうか。これは非常にくだらない疑問であるが、私達である人間にとっての正当性とは、相手と自分自身が同じ立場と知識のもとで成立するモノは全て正しいわけではない。なぜなら、相手が死を望んでいたとしても、相手は死にたくないという意志はあるはずであり、そこには環境的な理由があってそれによって死を望む場合は、相手の死を押し付けるのではなくて相手が生きられるように共助していくことが最も倫理的な態度であり正当性のある態度だろう。例えば、私という存在の周りに困っている人がいれば、困っている人自体を殺してなくすことでその困っている人の持つ苦しみから脱しようとするのではなくて、困っている人を救う態度こそ正当性のある態度ではないか。つまり、相手の苦しみを解決するという態度は同じであっても、相手が相手自身の真の本意から外れる行為を自分に要求していた場合は、相手を誘導して殺すことで解決されるのではなくて、相手の真の本意が達成できるように苦しみから脱して生きられるようになることを尊重していくことが相手の自律した意志を尊重する態度だろう。それは、相手が私という存在に非利益を要求したとしても、相手を真に尊重するのであれば相手の生きたいというもともとある真の本意を尊重するところに私達は正当性があると理解するはずだ。例えば、多数の庶民にとって軽蔑される仕事を嫌々やりたくないけどしようとしている相手に対して、その嫌々としようとしている相手を積極的にさせようとするのは相手の意志を尊重する態度ではないはずだ。しかし、カントが言う嘘を絶対についてはいけず、友達を匿ってそれを殺しに来た殺し屋にも嘘をついてはいけないという有名な主張も、あらゆるどんな人格を持つ人間にも自分がその相手に嘘をついてはならず、そのあらゆる相手を尊重しなければならないのも、嘘という行為と友達を助けるという行為のどちらが善に適うかというとトロッコ問題があれば、私達は嘘をつくことを選択して友達を助けるはずだ。それは、あらゆる人々の人格を尊重することだけではなく、悪の行為を行う加害者とそれによる被害を被る被害者がいた場合に、加害者側に人格を尊重した結果としてその悪の行為を働く意志を尊重することになり、自分自身がその悪の行為に加担してしまうことになるので、その加害者の人格を尊重されるべきではないはずだ。それは、被害を被っている相手が私を頼りに私を信頼して私の家に匿ったのであれば、私という存在は相手との契約を守る義務が生じるはずである。私がその相手を殺し屋に引き渡せばその相手との契約は果たされず、私という存在はその相手との信頼を破ることになってしまうはずだ。つまり、相手に嘘をついてしまったことになるはずであり、カントの動機説に立ったとしても疑問が生じるはずである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?