音楽とナルシシズム的な劇場観

 音楽とは、気分を転換する方法として用いられることが多々あり、それは自分を肯定していくモノの方が多い。音楽は自然体の自分自身を呪術的に希望のある方向に持っていく作用を持つ。特に現代の音楽は、adoを始めとする全能な悪を包括した自分自身の強さを歌詞にして強いと自認した自分自身に周囲と比べて優越感を起こさせる音楽の類もそれに含まれるはずだ。音楽の役割として、自然体の自分自身のままを肯定していく音楽ではなく、全能で素晴らしい自分自身を肯定したりや自然体のままを受け入れられない状況を打開するために利用されることが現代以降増え続けている。過去の音楽には、歌詞はなく、それは自分自身について歌ったモノではなかった。そのために、自分自身を安定化させるという役割は後々生まれたモノであろう。特に、音楽の世界に依存してしまってイヤホンやヘッドホンを外すと自分自身の自我が縮小してしまう人は、自然体そのままに存在することができず、自然体に戻ると問題が発生してしまう人であろう。それは、西田幾多郎の言う主体と客体が混合して自分自身という主体が今現在自分自身が見ている映画の主人公に主体を移しているためだろうか。もしそうであれば、人間は自分自身を安定させるために音楽を聴くだろうか。つまり、自分自身の主体を安定させるために音楽の歌詞やメロディによって自分自身を欺瞞していることなどするだろうかと言う疑問が生じる。そのために、西田幾多郎の言う純粋経験は少なくてもこのような音楽ではありえない話だ。そして、このような自己を肯定していく音楽は、ポピュリストも大衆に対して世界の中心に立っている感覚に基づき音楽が流れ始めると今現在アメリカの民主党から出馬したハリス氏のようなポピュリストは自分を中心に踊り始めるのも、ハリス氏は自分自身に音楽が流れることで自分自身に対して酔いしれることができるためだ。そして、ハリス氏と共に一緒に踊っている人間達も、自分達が世界を変えていく存在であると自尊心を高めることが可能だ。それは、ハリス氏が自らを舞台の上に立つ主人公であり、ハリス氏にとって他の人間は自分という主人公の客体であり、自分自身を中心に物語が進んでいくと印象付けたいかのように見えるためだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?