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全ては順調です

夫が体の不調を最初に訴え始めてから
どこの病院に行っても病名がつかない。

ある時、健診で看護師さんから
「脳の病気かもしれません、
大きな病院に行かれては」と勧められた。

そして、大学病院で「多系統萎縮症」と診断された。
その看護師さんが勧めてくれなければ、
何軒もの病院に行き続けていたはずだ。

診断されて、インターネット等で詳しく調べたら、
余命は10年と出ていた。

本人はすごく落ち込んでいた。
そりゃそうだ。

私も大層驚いたが、まだまだ元気だったし
病名が間違っていることもあるし
と、色々理由をつけて
現実を受け入れようとはしなかった。

今思えば、
夫は元々我慢強く
不平不満を早々口に出さないタイプなので
病気はかなり進行していたのだと思う。

最初は、寒い寒いと急に冷えを訴え始め
ズボン下や、肌着を着込んでもブルブル震えていた。

それが、自律神経が狂い始めたサインだった。

その前はすごい便秘になり
歩くだけで、お腹で便が響き
とても痛いと言うことがあった。

その時もかなりひどい状況になるまで
痛さを訴えることがなかった。

我慢強いのか、体の痛みに鈍感なのか。
どちらもあると思う。

あの時、便秘にならないような生活をしていたら
あの時、冷えない体作りをしていたら
と、今でもたらればの感情が次々と襲ってくる。

当の本人は死んでこの世にいないのに
残された私は、
生活の隙間で日々こんなことを考えている。

考えても意味なんてないのに、やはり考えてしまう。
もう半年以上前に終わったことなのに。

病気がわかってからも夫は仕事を続けた。

会社も体のことを考慮してくれ
事務職に配置転換してくれた。

会社に通勤するために
できる限りの配慮もしてくれた。
事務所までの急な階段を登るための
ヘルメットを貸与してくれた。

だんだん、動きも鈍くなり
階段も一人では登れなくなる頃、休職した。

通勤に私はずっと付き合い、送迎もやった。

今、あの頃のことを思い出すと、泣きそうになる。

動かない体で出勤して
動かない体で事務仕事をし
思うように喋れない口で
どうやって仕事をしていたんだろう。

それでも仕事をするということが
夫の生きがいになっていたと思う。

自分から、仕事に行きたくない
とは決して言わなかった。

通勤ができないようになって
休職期間もいっぱいになって
会社側から、退社を宣告された。

とても悲しかったはずだ。

でも、私は家でテレビを見たり
本を読んだりして
それでも楽しそうにしている夫を見るのが好きだった。

自分の足では歩けないけれど
目は見えるし、ご飯は食べられる。

手も自由に動かないけれど
リモコンはなんとか使える。
頭は、全く健常者のままなので
いろんなものを観て、笑ったり泣いたりしていた。

まだ一人で家にいても大丈夫だったので
私は仕事をしていたと思う。

私は自営業なので、時間の融通が効いたから。
電車で遠くまで勉強に行ったりもしていた。

もちろん、私が不在の時は
ヘルパーさんになるべく入ってもらえるように
スケジュール調整をしていた。

これを書いていて
あの頃のことが鮮明に思い出されてくる。

泣けてくる。

あの頃、介護日記を書こうと思ってはみたが
あまりにもつらくて、書くことができなかった。

まして、本当に死んでしまうなんて
思ってもみなかったから
記録を残すことを考えることさえなかった。

だから、うろ覚えの記憶で、書き進めている。
正確な時間や時系列は
かなり間違っているかもしれない。

今、こうして書けるのが嘘みたいだ。

あの日々を明らかにして、
もう一度記憶を引っ張り出せる日が来るとは思わなかった。

しかし、心の中では
いつの日かきっと書く日が来るだろうとは
わかっていた。
それが、今なんだな。

現在進行形では残せなかったけれども
過去を振り返るのが今であれば
冷静に書けるかもしれない。
とはいえ、主観ばかりだけれども。

当事者として
隣で見守ってきた妻として
人間として
世の中に出していかなければならないと思う。

夫が命をかけて私を守ってくれたように
私も命を注いで、これまでの日々を書いて行く。

思い出すのは楽しいことばかりではないけれど
今なら書ける。

日常にいながら、過去に戻る。
夫がすぐそばで
一緒に書いてくれているような気がする。

看護師さんに連絡をしてみろ
と言われている気がする。
夫が最後に私を連れて行こうとしていた
あの場所に誘ってみよう。
        (6ヶ月目)

新堂きりこ

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