部活の思い出

みなさんこんばんは。

「このハッシュタグでnoteを書いてみませんか?」

という記事を見かけたので

書いてみようかな、と。


私にとって「部活」は人生を語る上で避けては通れないワードです。

話すと長くなりそうですね、色々あったので…。


まぁご存知の方も多いかも知れないですが

私は中高で吹奏楽部に入っていました。

正直自分で言うくらい頑張っていたし、充実していました。たぶん吹部にちゃんと向いていました。


中学生になって

部活って結構悩むじゃないですか。

親と「中学生になったらバレー部に入る」という約束をして(同世代なら分かってくれるはず)"わがままファッションガールズモード"を買ってもらったんです。

だからバレー部に入る予定でした。

音楽は本当に大昔から大好きで

吹奏楽部にも興味はありました。

あとはサッカー部のマネージャーに憧れていて

その3択って感じで。

でもサッカー部はマネージャーがいなくて

バレー部は「向いてないな」って思ったのと、小学校の頃仲が悪かった1個上2個上、学年1嫌いだった同級生が入ることになっていたので絶対に嫌でした。

そんな中、小学校の頃からの親友2人が「吹部入らない?」と言い出したのです。

だからコロっと母親を裏切って吹部に入りました。

体験期間を経て、希望楽器は ①ホルン②ユーフォニアム③トロンボーン④パーカッション⑤フルート でした。

オーディションを経ていざ楽器発表。

……え、トラ、ト、トランペット?

いやいやいやいやいや、え?笑

希望も出していないトランペット。

いやまぁ確かに楽器体験1発で音出て無双してたけど。

後で聞いたら「性格的にトランペットでしかない」という理由でトランペットにされたそうで。

そんなこんなで私はトランペットになりました。

同期は入部時10人、4月末には7人。

この7人で3年間過ごすことになります。

コンクール地区大会金賞は堅い、くらいの学校でした。

区自体がそんなに吹奏楽強くなかったんです。

でも先生がめちゃくちゃ厳しくてしんどかったです。

パートは3人だけ、部員は20人もいませんでした。

先輩2人とも色々喧嘩したりしましたが、たまたま3人共同じ高校に入学して、今でも飲みに行ったり、お互いの結婚式に呼ぶ約束をするくらい仲良しです。

顧問の先生は「鬼軍曹」て呼ばれてました。

外部指導の先生は目力が怖過ぎたし今じゃ考えられないくらい暴力的で、でも優しくて匂いのキツい(いい匂いだけどキツいタイプの)おじさんでした。

でも今や本当に恩師で大好きです。本当に。

2年生の頃顧問が産休で居なくなって、新任の先生が顧問になりました。

少し不器用な先輩と、1個下の賢い後輩に挟まれて苦悩の日々でした。

その年、顧問の先生が申請しそびれたことが原因で夏のコンクールに出られませんでした。

冬には同期7人でアンサンブルコンテストに出ました。

福田洋介先生という作曲家の先生に、私たちの音を聞いた上で曲を書いてもらいました。

「フェアリーストーリーズ」

思い出の一曲です。

金賞取れるように頑張ろう!と7人で一致団結

泣いたり笑ったり、7人で毎日毎日練習しました。

当日を迎え、泣いて、結果発表が夜遅かったので私たちは帰宅すると、結果発表の為に残った顧問から電話が。

7人でなんと特別賞を頂いたのです。特別賞を。

金賞+で音大の特別賞を。

感動でしたね。その後母校ではうちの代が神7と呼ばれています。(ガチです)

中3、鬼軍曹が帰ってきました。幸せでした。

後輩が2人になって、悩みが増えました。

「後輩が育たないのは先輩のせい」

という外部指導の先生の言葉が胸に刺さって

「常に笑顔、努力家、明るい人」というイメージの張り付いたこの私が

人から隠れてトイレの個室で泣く日々が始まりました。

でも幸せだったんです。

トロンボーンの同期とトップを貼って隣で吹く毎日

顧問に怒鳴られて泣いたり

部内の人間関係が原因でミーティングになったり

コンクール前日に同期が辞めると言い出して部活を脱走してコンクール辞退の危機に追い込まれたり

色々あったけど幸せでした。


同時期、死ぬほど勉強をしました。

もちろん、行きたい高校に行くために。

行きたい高校は、自分が中1の頃に中3だった同じパートの先輩が行った吹奏楽の強豪都立校。

強豪都立高と言っても今や過去の話になってしまうくらいに色々あって廃れてしまったのですが、当時は「都内6強」と呼ばれるくらいの学校でした。

部活は休まずに出て、部活後は毎日塾、そんな毎日でした。

同期も仲が良くて支え合って日々過ごしました。

その結果同期7人全員が第一志望に合格

笑顔で定期演奏会を終えることが出来ました。


高校生にあがった私は言うまでも無く大好きな先輩に再会します。

中学の頃はその先輩の技量が基準で、その位吹けて当たり前だと思っていました。

強豪って言うからその先輩より上手い人がゴロゴロいて、自分は埋もれて…

という未来を想像していたのですが

その高校に入ったことで気付いたんです。

あの先輩は異常な程上手かったということに。

そして(自分で言いますが)、その先輩を「当たり前」だと思って必死にしがみついていた自分も強豪校レベルに達することが出来ていたということに。

とは言ってもまぁ、強豪校ですから

同期は入部当時50人いました。トランペットは5人。

同期の中には「中学で全国大会行きました」「15人いるパートのトップやってました」「マーチングで海外行きました」みたいな

聞いたことないレベルの子が同期にウヨウヨいたわけです。

その中に部員20人の無名中学から来た小娘がちょこんといるわけです。

そりゃあ怖いですよね。

そして、なんやかんやで5月頃、150人いる部員の中で第一格差が出来るわけです。

全国大会を目指す約50人編成のトップ集団A組、最優秀賞を目指す約30人編成の安定型B組、それより少し少ないC組、そしてコンクールには出ず基礎を固めるD組の4組に分けられるのです。

ありがたいことに1年生の中でA組に選ばれた8人の中にメンバーとして入れて頂いて、地獄の日々が始まりました。

BCのメンバーが「今日は部活後親睦会!」とか言っている中、A組は施設練、パート練、レッスン、練習、練習、練習、、

正直楽しくなかったです。笑

初めての大編成、初めてのガチなコンクールという楽しさはありましたが、怒られたりミスをしたりする恐怖が大き過ぎて、楽しむ余裕が全くなかったです。

結局都大会金賞止まりでした。

コンクール期間の途中で来年度以降の幹部に選出され、負担が爆増しました。

タイムテーブルを作ったりと、とにかく資料をカタカタ作る事務的なポジションでした。

遅い時は夜中の2時3時になってもパソコンをいじっていました。地獄でした。

その年の金管8重奏にもメンバー入りし、冬もアンサンブルコンテストに向けてそんな感じの生活をしていました。

コンクールより更に狭まり、金管全体の中で8人しかメンバー入りしないこともあり重圧が凄かったです。

でも金8のメンバーは本当に仲が良くて、うちの学校の特性上、別チームとして出ているフルート8重奏に力を入れている反動で金8は毎年放置される傾向があったりもするので、割と緩く楽しくやっていました。

こちらも何故か都大会に進めてしまい、キャッキャしながらやった記憶があります。金8では副リーダーをやりました。

2年になって同期の女の子とこれでもかというほど揉めて、尋常じゃなく部活を辞めたい時期に突入しました。

幹部のメンバーも、比率的に木管の子が多かったこともありイライラし過ぎて全てが嫌でした。

しかも同タイミングで一個上の幹部が退部ラッシュでどんどん消えていき、しかもデータを残さずにいなくなむた為私たちの代の幹部の仕事が5倍くらい増えて負担が異常なレベルになりました。

そして他に本当にA組に乗れるような人がいなくて、パートや先生を必死で説得しても駄目で、嫌々A編のコンクールに乗せられ、嫌々2ndトップをやりました。嫌々です。結果都大止まり。この時点で「いやこんな死ぬ気で都大止まりなら楽しくBCいきたいわ」という感情が芽生え始めます。

このタイミングで約8年飼っていた犬が死にました。

もう追い討ちですね。笑

そこで病みに病みきって土日に部活をサボってネカフェに行く生活をしていたら出席率が悪いという理由でその年のアンサンブルメンバーから外されました。

もういよいよ嫌になって、思い切って2ヶ月間休部しました。

休部期間は短期バイトをしてみたり、友達とお泊まり会をしてみたり、心身共に健康的な生活が送れてハッピーライフでした。

でもやっぱり中には「早く戻ってきて」と言ってくれる同期や「先輩がいないと寂しいです」と言ってくれる可愛い後輩がいたので、帰ることにしました。

3年になって私はB組に降りる決心をしました。

12月頃から仮Aと言って、A組に向けてその年の1,2年生(要するに次年度の2,3年生)が仮組を組んで練習を始めるという決まり?があるのですが、もちろん休部していた私は仮Aにも乗っておらず。

当たり前に3年時はBC確定だったんです。

でも同期や先輩が「お前はAにいないと駄目だ」とか「先生説得してくるよ」とか、そんなことを言ってくれました。

その年の自由曲は私たちが1年生の頃にコンクールでやった曲と同じ「いにしえの時から」でした。

まぁ私はA組の雰囲気が嫌いだったのでB組一択で。

先生やパートを交渉してその年はB組に乗ることにしました。

B組には同期がたった5人しかおらず、そのうち私を含めた3人は受験の関係で出席率が振るわなかったり、家庭事情で休部していたりした子で、強豪出身だったりA組経験者といった割と実力派揃いでした。

同期が事務リーダー、私が音楽リーダーを務め、課題曲も結構難しいものを選んで、楽しみながら全力でやりました。

本当に仲が良くて、コンクールの数日後カラオケで打ち上げをしたり、年明けにご飯会をしたりしました。

その間「A組は待遇されてずるい」「Aに乗りたい」と散々言っていた人達が「辞めたい」「降りたい」と言っているのをみて、A組の怖さとBに降りて良かったなという気持ちを痛感しました。

A組の都大会の日が学校の文化祭と重なり、BCのみで文化祭に出演しました。

もちろんA組がいないのでソロは吹き放題だし、幹部をやっていたこともあり先生への説得もお手の物で選曲に携わったりともうやりたい放題でした(笑)

定期演奏会でコンクールの曲をやる時、パートのみんなと、あの犬猿の仲だった同期の計らいでコンクールに乗ったメンバーと同じ量吹かせてもらいました。(基本的にA組がコア、BCがそれ以外と言われ、BCはカット(そこは吹かないで!そこは吹き真似で!とか)が多いんです。音が乱れたりするので…。)

夏はやりたい放題やって、思い出の曲を同期たちと一緒に吹いて、ずるいですよねほんと、笑

定期演奏会第二部のポップスステージでは、一年生の頃から私が担当してきたソロをぶっ放したり、演出でピ●キオの衣装を着て踊ったりと超絶楽しみました。

3年生演奏でやったもののけ姫メドレー

みんなで吹いたいにしえ

涙涙の呼名

最高に充実していました。


この文だけ見ると「いや特に高校、絶対楽しくなかったやんお前」と思われると思うんですけど、結局は楽しかったんですよ、何故か。

今でも高校のOBOGバンドに入っていて活動しています。

「戻りたい」とは思わないけど「楽しかった」とは思います。

案の定長くなりましたね。

これでも結構省略した方なんですよ。

まぁそりゃ、テスト期間含めほぼ休み無しで6年間やってきたことを文にしたらこのくらいにはなります。許してください。

今日はこの辺にしておきましょう。

もう一つ書きたいことがあったんですけど

どうしよっかなぁ🤔

まぁとりあえず、一旦、さようなら!!!



#部活の思い出

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?