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日本左翼史という歴史の反作用から学ぶ

 高校生の頃、倫理の授業が好きだった。古今東西の代表的な哲学者の思想に触れた。思想を学ぶときに、現代の価値観のフィルタを通してみてしまうと学びを狭めてしまう。当時の常識や時代背景と合わせて学ぶことで、深い学びにつながるのだ。例えば、デカルトの有名な命題、「我思う、故に我あり。」は当たり前すぎて、現代の私たちからすれば「だから何?」となる。しかし、当時はローマ・カトリック教会が真理を掌り、彼が「方法序説」を書いた1637年はカトリックとプロテスタントが争った30年戦争の真っ只中だった。慣習として受け入れている法や真理を、権威や常識に頼らないで1から自分の頭で考え、確実なものから再構築していこうとする、デカルト自身の知的態度を表す一節であった。


 著作家・経営コンサルタントの山口周氏の著書「武器になる哲学」では、哲学からの学びは「アウトプットからの学び」と「プロセスからの学び」に整理できると主張する。哲学の論考には「Howの問い」と「Whatの問い」があり、「Whatの問い」のアウトプットには現代の私たちにとっては間違っているものが多い。しかし、彼らがどのように考察したかという「プロセスからの学び」からみずみずしい学びが得られるのだと言う。


 先日、本屋に立ち寄ったとき、池上彰氏と佐藤優氏の共著「真説 日本左翼史」と言う本を手にした。現在の真理とまで認識されている資本主義社会を外側から見直すためにも面白そうだなと感じ購入した。序章の中で、「思想や政治運動というものは、その時代時代に特有の社会構造に対する反作用として出てくるものです。」と書かれているのを読んで、頭の奥の方につっかえていたものが腑に落ちたような気がした。倫理の授業が好きだったのはなぜなのかが言語化された。

 この著作では1960年までの左翼史が収められており、続編でその後の左翼史が解説されるようだ。「二・一スト中止」や「三つの怪事件」など、バラバラに理解していた知識を体系的に整理し直すことができる。本書で紹介された大島渚氏の映画、「日本の夜と霧」(1960年)は共産党の50年分裂の頃の空気を皮膚感覚で理解することができた。これを機に日本の現代史を味わい直してみたい。


 普段、自分の考えと合わない人の思想に触れることも重要だと感じた。自分の意見や真理(だと思われていること)を客観視にするためにも、反作用である思想に触れていきたい。それによって真理の輪郭がはっきりと浮かび上がってくる。もしかしたら、自分が反作用だったことに気づくかもしれない。アメリカやブラジルで俄かに騒がれている「フラットアース理論」だって「プロセスからの学び」が存在し、現代特有の社会構造の反作用とみて取れるのだ。


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