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SF短編「ウラジオストク・フット・スカッシュ」

迷走した試論「「もしフットボールが∫|ψ(x)|2dx=1で表されたら」であったが、この勝手な妄想をさらに進めて「プレーが止まらない(止められない)フットボール」の思考実験を試みたのが本作「ウラジオストク・フット・スカッシュ」である。

”未来のフットボール”をサイバーパンク風ノワールに仕上げたつもりだが「コネクテッド(Connected)」の要素はほとんどない。全体のイメージは昔のナイキのCM「Cage」そのままであり、2次創作といわれても返す言葉もない。
ご笑読いただければ幸いである。


ウラジオストク・フット・スカッシュ


1 虚数

 トレーニング・ルームでウォーミングアップを終えたおれは薄暗く汗臭いロッカールームに戻りヴラジ・ヴォストークのユニフォームに着替えた。年季のはいったアディダスのバッグから使い古して足になじんだスパイクを取り出す。世界一を決める決勝戦に残ったチームだというのに用具の手入れや洗濯はすべて自分でしなければならなかった。これが「裏」の物理プレーヤーの実態だ。
「びびってんのか?」隣のスペースでもつれたスパイクの紐と格闘していたイアンがひどい訛りのロシア語で言った。長身、細マッチョなインテリで、おまけにチーム一の皮肉屋ときてる。普段から口数の多いやつではなかったが、おれとは妙にウマがあった。チーム一のテクニシャンで、おれが一番頼りにするパートナーのひとりだ。
 おれが無視しているとようやくもつれた紐をほどいて歓喜の涙を流しそうな目をしたイアンが「ユニフォームが後ろ前だぜ」と言った。
イアンの浅黒い強靭な長い腕に彫られたユニオンジャックのタトゥーを横目でみたおれは「いけねぇ、パンツもだ」とぶっきらぼうに言ってユニフォームを脱いだ。
 「勝つためならパンツを履いてなくても許すわよ」イアンの向こうでイリーナが無感情に言った。流暢なロシア語だった。イリーナの方がチーム在籍期間は長かったからな。見事なプロポーションを真っ白な肌で包んだイリーナは背中一面に彫られた龍のタトゥーを誇示するように立っていた。おれにはタトゥーを入れる趣味はなかったが、イリーナのタトゥーにおれは一瞬見入った。おれを威嚇していた龍の目はすぐさまスレンダーな身体とともにユニフォームに隠れた。その身体には鋼の体幹と恐るべきスピードが内蔵されていることをおれは知っている。ヴラジ・ヴォストークの切れ味抜群のシューターだ。
 「安心してくれ。パンツは履いてる」
 振り返ったイリーナの右目があったはずの場所にはめ込まれたミラーシェイドが笑ったように見えたがおれの気のせいだろう。たぶんオリジナルのままであろうイリーナの左目は笑っていなかったからだ。
 イリーナは外見上女性らしさはたっぷり持ち合わせていたが、女性ではない。もっとも同じような意味でイアンもおれも男性ではなかった。肉体改造を繰り返したおれたちアスリートにはもはやジェンダーという意識はかけらもなかった。外見は個々人のイデオロギーの反映でしかない。イリーナのミラーシェイドはいまの|流行|<<はやり>>だ。
 監督の声が頭上のスピーカーから聞こえた。
「今日の先発はイアン、イリーナ、キャッシュ、ベツコイ、プロタソフの5人だ」
イギリス人のキャッシュとロシア人コンビのベツコイ、プロタソフの姿はロッカールームに見えなかったが、おれたちは気にも止めなかった。無尽蔵のスタミナを誇るチームの心臓であり肺臓のキャッシュはいいやつだ。特に名前がいい。おれはCash<<キャッシュ>>が好きだった。ロシア人たちはいてもいなくても同じだった。無口が歩いているような連中だ。だがピッチでは無敵のディフェンダーだ。
「ヒロは後半から出場だ」
 監督の声はおれたちプレーヤー自身で選んだ。女性の声やそれらしいコーチの声音を選ぶこともできたのだが、チームメンバーは機械的な声音を選んだ。AIはAIらしく、だ。ついでに言うと、おれたちはコーチのAIをホーキングと呼んでいた。「表」の仮想監督はスーツを決めた紳士が演じている。薄汚いおれたちも同様に「表」ではスターのような容姿を与えられた3D映像が取って代わる。
 「ゲームをよく見ておいてね、ぼうや」イリーナは長い鋼鉄の爪でおれの首筋を撫でた。「おいたをしたら引っ掻いちゃうわよ」左目をつぶっていたので、本気か冗談か右目だけではわからなかった。たぶん冗談だろう。冗談に違いない。
 「知らない女の人のいうことは聞いてはいけない、とママに言われてるんだ」
 「ヒロ、あたなにはママがいたの?」心の底から驚いたような声音だった。
 「たぶんな」
 「ママの言いつけをよく聞くいい子ちゃんだったのね。いつも何をして遊んでいたのかしら、いい子ちゃんは?」
 「おおかた海で波と戯れてたんだろ」とイアンが横から口を出した。
 「ヒロはいつも波の話ばかりだ」
 長い爪がおれの喉元まで登ってきた。「本当に波しか興味はないの?人生、もっと面白いこともたくさんあるのに。教えてあげましょうか」イリーナの妖艶な笑みは美しくも恐ろしかった。薄暗がりのロッカールームのなかではあまり見たいものではなかった。ひとりだったらおもらししてしまいそうだ。
 しばらく姿を見せなかったキャッシュと、筋肉でできたツインタワー、ベツコイとプロタソフがロッカールームの暗がりからいきなり現われた。三人の身体からは汗と血の匂いが立ち上った。いずれも無表情だが顔は若干上気していたようだ。壁に埋め込まれた時計の表示によればもうすぐ試合開始だ。
 ホーキングの声が頭上から降ってきた。
「三十分前に本船に十名の不審者が不法乗船したので除去した。テロリストか強盗かは不明だ。キャッシュ、ベツコイ、プロタソフの三人が積極的に排除作業に参加してくれた」
 おやおや。この船を襲うとは素人だな。おおかたネットのダークサイトでかじったこの船の断片的な情報に釣られてウラジオストク近辺のゴロツキどもが押し入ったのだろう。馬鹿な連中だ。外見は貨物船だが火力は戦艦並だ。運良く船に乗り込んでも私設軍隊が常時警備をしているし、なによりおれたちがそろいもそろってクレイジーだからだ。十人程度のゴロツキならあの三人だけでも十分もあれば、全員船から海に放り出せるだろう。
 「ウォーミングアップは十分ってわけね」とイリーナが残念そうに言った。実際「排除」作業に参加できなくて残念だったのだろう。
 「完全武装の連中だった。なかなか手ごわかったぜ」キャッシュにしては最大の褒め言葉だった。「排除」された連中の正体やいまどこでどうしているのか、だれも関心を払わなかったし、おれも聞かなかった。
「みな準備はいいかな。そろそろ時間だ。われわれは三十億の観戦者を待たせることができるほどVIPでもセレブでもない」ホーキングの声が響いた。
「ゲーム開始だ。ダバーイ(行け)!ダバーイ!ダバーイ!」
 ホーキングは気の利いたことも、ペップスピーチで鼓舞することもせずおれたちを送り出した。もっともおれたちにはペップコードは不要だ。おれたちはプロのアスリートで、勝つこと、そして勝つことで手にできる特別ボーナスがすべてだった。いまここにいるチーム全員がそうだ。ひとりひとり理由はいろいろあるだろうが結局目的はひとつ。大金を手にしていまの生活から這い上がるんだ。
 おれたちは無言のまま順番に試合会場につながる廊下に出るとピッチに向かうゲートに一人づつ飛び込んでいった。

2 複素数

 ゲートの周囲にはセンサーがびっしり組み込まれている。このセンサーの山が選手ひとりひとりのサイズと身体能力を計測し、そのデータをサーバーのARプログラムに送る。ARプログラムはすぐさまひとりひとりのサイズをもともとインプットされていた定数にしたがって強化されArtificial Reality空間上に可視化される。

 フットスカッシュはこのAR上で展開されるサッカーゲームだ。
 今や世界の三十億人が熱狂的に視聴する人類最大のイベントだ。選手の能力、身体能力や反応速度が強化されるため生身のサッカーとは異なる次元の運動能力が試合に実現される。仮想上の実況アナウンサーの使う比喩を使えば、選手は音速で走り、数メールもジャンプし、放たれるシュートもメガトン級の威力を持つことになる。
 結果としてサッカーのルールは実態に合わせて変更された。チームの人数は11人から5人に減らされた。プレーヤーの身体能力が飛躍的に上がったため、11人では密度が大きすぎてプレイのダイナミズムが減少したことに加え、少人数でも旧来のサッカーのピッチをカバーできるようになったからである。
 二十世紀の後半から二十一世紀にかけての国際的な人気を誇ったスポーツのエンターテインメントであるサッカーが、観客の飽くなき欲望とITの進化によって変貌した姿、それが2030年に生まれたフットスカッシュであった。
 しかし超人的なプレーはあくまでも「表」のゲーム、AR上のゲームだけの話であった。
 「裏」のゲームの実態は生身のプレーヤーたちの競技であった。とはいえ、AR上に超人プレーを投影するには、個々のプレーヤーに相応の身体能力が求められた。
 観客の超人プレーへの残酷な欲望はプレーヤーへの負荷を無限に高めた。「裏」の物理アスリートたちは違法なドーピングや改造による肉体強化を繰り返す結果となり、違法は半ば公然化し当局からも黙認された。
 往年のサッカーの熱狂は、フットスカッシュに取って代わった。
 地域ごとのサッカークラブがフットスカッシュに衣を変えた。しかし、チームやリーグのレベルはサッカーの時代とは異なった。チームの勝敗はチームのプレーモデルを理論的に支える数学やアルゴリズムの優劣で決まるようになった。国力の差ももちろんであるが、AR化してチームをつくる技術は高度なプログラミング技術が求められ、おのずと天才的なハッカーを排出するロシアや中国がトップのリーグやチームを抱えることとなった。
 これだけの規模になれば、プレーヤーの年棒はもとより、大会の運営収支や裏の世界の賭博場に集まる金額も天文学的な金額になった。それだけでなく未成年の青田買い、引き抜き、違法な肉体改造、ドーピングなどダークなビジネスも大規模になっていたことはだれも公にはしないが周知の事実であった。
「表」のビジネスにも闇があった。

 毎年開催される前年の世界各国のリーグ戦の優勝チームが約1年間のリーグ戦を戦うチャンピオンズリーグのここ最近の覇者は中国随一の人気と資金力を誇る上海レッズであった。今年の決勝進出も当然の絶対王者であった。一方の対戦相手はロシアのリーグでも今年はじめて一部リーグに上がったばかりのチーム、ヴラジ・ヴォストークであった。二十世紀のソ連時代は軍港として外国人の流入を禁止したばかりか、地図上からも秘匿された極東のヨーロッパ、ウラジオストクは地球温暖化のため近年は一年中雪が降ることもなく、すっかり熱帯化した日本のかわりにめりはりのある四季が楽しめる景勝地となった。しかもすっかり国力を落としたかつてのIT先進国日本の数少ない優秀なプログラマーが出稼ぎにくる地の利もあって、ヴラジ・ヴォストークは少ない資金ながらも徐々に力を付け、世界でもトップレベルの人気と実力を誇るロシアプレミアリーグに昇格した年に勢いそのままに初年度で優勝杯を手にした。
 チーム名のヴラジ・ヴォストークは地名ウラジオストクのもともとの意味である「東を支配する」の語感をむしろそのまま受け継ぐことにした。いまでは東方どころか世界を征服せんとしていたのだ。

 世界一決定戦ではあったが、観客の熱狂も大歓声も「表」の仮想ステージ上だけの話であった。チームメンバーがゲートをくぐり抜けた先はこれまた天井の薄暗い照明だけの四方が剥き出しの鉄板で囲まれたフットサルコート程の広さの閉じられた空間であった。実際そこは貨物船の中を改造して作ったフットサルコートなのであった。床の人工芝にはかろうじて緑色が残っており、ところどころ禿げた芝の周囲にはコートを示す白線のラインが引かれていた。周囲には一切の装飾はない冷え冷えとした部屋だった。芝や壁のあちこちに血糊がべっとり付いていたのはキャッシュら三人のウォーミングアップの跡だろう。ピッチ上ではあの三人は文字通り無敵なのだから。血糊もゴールを覆う鉄製の鎖もいたづらに暴力的なイメージを喚起させるだけだった。
 貨物船はウラジオストク港に係留されていた。なぜウラジオストクなのかおれには聞かされていなかった。最大の観客マーケットの近場である中国とロシアの国境沿いの街だからか、極東における最大のITのアンダーグランド市場のある街だからか。もっとも「裏」の舞台がどこにあろうと世界中の観客には関心がなかった。彼らはAR上のエンターテインメントをどこでもどんな場所でも有料の仮想空間にアクセスすれば観戦できるのだから。
 ロシアで生まれたフットスカッシュは、協会の設立当初より「表」と「裏」の二重構造を持っていたが、いまに至るまでそれは関係者以外には秘匿された。ディズニーランドのハリボテのシンデレラ城を裏側から見ては夢が覚めるだけなのだ。
 相手の上海レッズの面々はすでにコート上にいた。いずれも強面の屈強な戦士たちだった。「やつらも「排除」に参加してたんだ」とキャッシュがぼそりと言った。
 やつらもウォーミングアップは十分、というわけだった。
 「やつら、半端ねえぞ」

3 確率振幅

 ゲームのオッズは上海レッズのニ倍に対し、ヴラジ・ヴォストークの十五倍。下馬評では絶対王者上海レッズの圧倒的優勢であったが、上海レッズのキックオフで始まった試合は、開始五分も経たないうちにヴラジ・ヴォストークのコンパクトで高い守備ラインとハイプレスによって、上海レッズを早々に押し込む予想外の展開となった・・・

 「表」の観客のボルテージも徐々に上がって行き、上海レッズ・サポーターの悲鳴とヴラジ・ヴォストークのサポーターの応援チャントが不協和音となって耳ををつんざいた、はずであった。が、船内の物理コート上には会場の熱気は伝わらない。その代わり大音量のロックンロールがかかる。暴力的なリズムがおれたちを鼓舞するのだ。

 ゴール裏から鎖のネット越しにピッチを猛スピードで飛び回るボールをトラッキングしながらゲームの波動関数を弾きだそうとおれは目を凝らした。ただでさえ素早くダイナミックな映像を提供するフットスカッシュであったが、今日の両チームは通常のレベルを遥かに超えた異次元のプレイを「表」の仮想側で展開していたろう。「裏」の物理側のゲームがハイレベルであったからだ。両チームともお互いの強化された身体能力を全力で開放していた。この能力をすべて有効なプレイにつなげるのは神速の判断だけであった。
 イアンとキャッシュのハイプレッシングで相手を押し込み「コントロールされたカオス」のアルゴリズムで序盤上海レッズを押し込んでいたヴラジ・ヴォストークだったが、ハイプレスの連続は相手以上に選手の体力を消耗させ、次第に上海レッズのボールポゼッション率があがっていった。
 やつらの「ゾーン最小化アルゴリズム」の基本は二人で一人を追い込む「狩り」の最適化プログラムだ。局地戦では最大の効果を発揮する、フットスカッシュの数ある戦略の戦略のなかでは最も先進的で、現時点での最強アルゴリズムだ。
 おれは頭の中で波動関数を可視化した。いまはやつらの時間だ。イアンの戦術は攻撃に転じる「ポジティブ・トランジション」では大きな戦力であったが、守備に転じる「ネガティブ・トランジション」では脆弱性があることは否めなかった。ショートカウンタで留めを刺すのがイアンの「勝利の方程式」であったが、むしろ上海レッズのカウンタが時間を経るにつれ明らかに増えていった。もはやイアンの必殺の「五秒ルール」(相手にボールを奪われてから5秒以内に奪い返してのショートカウンタ)は上海レッズの必殺技となっていた。
 しかしここまではおれのシミュレーションどおりであった。
 後半に必ず「オープンな展開」になる時間がくる、そのときがおれの出番だ。おれは落ち着いてそのときを待った。

 前半が終了した。スコアはノーリ・ノーリ(0対0)。
 ロッカールームに引き上げてきたヴラジ・ヴォストークのメンバーは全員相手以上に消耗していたようだった。チーム一の走力と運動量を誇るキャッシュでさえ肩で息をしていた。
「あとどのくらい耐えられる?」おれはイアンとイリーナにタオルを投げ渡して声をかけた。
「まだ大丈夫だ。お膳立てはまかせとけ」イアンの疲労は明らかだったが、声には絶対の自信が感じられた。
「花道を作ってあげるわよ、ぼうや」とイリーナ。ミラーシェイドに汗がつたい、全身から汗の蒸気が立ちのぼっていた。

 「フットスカッシュとは、ひとつのボール、ふたつのゴール、ふたつのチーム、ひとつのフィールド、相対する方向とルール」を持つ「ゲーム」であり、、「ゲームの目的は相手より一1点でも多く得点して勝つこと」と定義できる」戦略ミーティングのときだった。その日おれはチーム皆の前で珍しく饒舌だった。

 「Aチームの視点で考えると、まず相手ゴールを目指し、ボールをドリブルかパスで前に、つまり相手ゴールに少しでも近づく場所に運ぶ。動機は、ボールを相手ゴールに置く確率が少しでも高くなるようにするためであるし、高い確率がどこの場所(サイドや相手ゴール前のスペース)にあるか経験的に知っているから。対してBチームは守備の布陣をひき、Aチームの動きを防ぐとともにAチームからボールを奪い、逆にAチームのゴールに殺到することに全力を尽くす。この間のボールの軌跡は一定ではない。ボールはA,B両チームの相手ゴールに向かう強度のなかでアトランダムに動いていくように見える」

 このボールの位置を確率から考えてみる。

・選手はボールをどこに運ぶか。
・少しでもよいポジション、得点の確率が高い場所、選手を選ぶ。
・ボールは常に確率の低い場所から高い場所を目指す。
・ボールには人が寄るから、密集が生まれ、ボールは前に進めなくなり、同じ場所であっ
ても時間がたつと確率は低くなる。
・人の多いところは確率が低い。
・人が集まれば集まるほど確率は低くなるなか、これを突破してボールをスペースに出せ
ば一気に確率は高くなる。

 つまりボールの軌跡は、AチームとBチームの強度と軋轢が生む確率の場を進んでいる。
ボールの位置を確率的にとらえる。これを、電子の位置を確率的にとらえる「量子力学の波動関数」のアナロジーとして考える。
 量子力学の波動関数では、以下数式で電子の位置を確率的に表す。

|ψ(x)|2dx

(x)は時間を表し、ψは時間とともに変わる電子の位置を確率的に表すための関数であり、複素数の二乗から算出される。この式を積分すれば、すべての位置の確率の総計になるため、おのずと存在確率は100%、1となる。
 この意味をフットスカッシュにあてはめて考えれば、ボールの存在確率が100%のとき、最終的にボールはゴールポスト内も含めたピッチ上のどこかに必ず位置することを示す。よって数式は∫|ψ(x)|2dx=1として規格化される。

 「そしてこの数式こそフットスカッシュの本質なのだ」

 「複素数ψ(x)|2はインテンシティだ。昔から指導者や評論家が口にする「強度」を定量化できる式なんだ。両チームにそれぞれインテンシティがあるので、二乗で表される」
 その場にいたヴラジ・ヴォストークのチーム全員はおれのロジックを先刻ご承知なわけでだれも口を挟まなかった。
「フットスカッシュは確率の波動関数で表すことができる。時間の経過のよって波が常に大きくなったり小さくなったりするのはフットスカッシュの試合展開の流れを意味する。ボールは常にヒルベルト空間を滑っていく。これがフットスカッシュだ」おれは持論をメンバーに吹聴するのは初めてではない。が、勝利のため、大金のためには同じイメージをチーム全員で共有するしかない。
「しかし、この波動関数はチームに固有のものではない。将棋や碁でいうところの棋譜にあたる。つまり相手次第でこの関数は決まる。しかも相手のアルゴリズムから生まれる変数を考慮に入れれば事後の分析には有効だがゲーム中のオンタイム分析には適していないのだ」おれは自己分析による弱点を淡々と述べた。
「だからこそのサブだ」かつてホーキングは言った。
「すでに上海レッズとヴラジ・ヴォストークの棋譜、波動関数のシミュレーションは終えている。勝つぜ。おれたちは」おれはホーキングにそう返した。正直に言えば、いくらシミュレーションをしたところで意味はないのだ。ゲーム当日の変数は無限に設定される。
「良いペップスピーチだ」ホーキングは相変わらず無機質な声でそう言ったのだった。

 後半が始まった。
 戦局に変わりはなかった。ヴラジ・ヴォストークは上海レッズの猛攻にさらされ続けた。上海レッズの波状攻撃にイアンも自陣ゴール前に張り付かざるを得なかった。ボールを大きくクリアできないヴラジ・ヴォストークはそれでも上海レッズの波状攻撃を紙一重でブロックしていた。ロシア人ツインタワーの神業クリアが続いた。ベツコイの顔は汗と血でまみれていた。顔でのブロッキングは連続パンチを受けたような衝撃だったはずだ。相棒のプロタソフも大きく破れたユニフォームからは胸に大きく刻まれた一文字の傷が覗いていた。上海レッズのフォワード陣のスパイクを受けていたのだ。身体能力が強化されていたが痛みは生身と同じだ。
 物理イアンが、仮想上の比喩で言えば、音速で向かってくるシュートをこれまた音速で弾き返した。ボールは左の鉄板の壁にあたりそのままの勢いでピッチに戻ってきた。プレイ・オンだ。ボールと鉄板の衝撃で一瞬船が揺れたようだ。衝突音はまだおれの耳に残っていた。痺れた足を引きずりながらイアンはスプリントを再開した。こぼれたボールをイリーナが拾ってドリブルを試みたが相手の屈強なディフェンダーは二人がかりでイリーナから強引にボールを奪取した。転倒したイリーナはピッチ上を五メートルも滑っていったが、それでも素早く立ち上りボールを追い始めた。プレイが切れない。これがフットスカッシュだった。仮想でも物理でも同じだ。
 ヴラジ・ヴォストークは瀕死の状態だった。

 ホーキングとおれの話には続きがあった・・・

 おれの波動関数論では事後分析しかできない、という点以外にも弱み、というより特徴があった。
 波動関数ならではの境界条件が存在したのだ。

∫|ψ(x)|2dx=1

 ψが波動関数ならば、ψは連続関数でなければならない。波動関数は、不連続では通常の波動関数の満たすべき境界条件を満たさないからである。では、ボールの軌跡を「確率振幅の波動」と考えた場合、それは連続の動きと言い切れるだろうか。答えは否、である。ボールの動きがとまる、つまりプレイが止まるケースがあるからだ。
 フットスカッシュにおいてのプレイを止める要因は、ルール上では1)ファール、2)レフリーの停止指示、 の2点だけであった。
 旧来のサッカーでは、3)ボール・アウト、4)ゴールキーパーのキャッチング、のケースもあったが、フットスカッシュでは、四方を壁で囲った空間でゲームが行われるため、ボールはピッチから出ない。弾んで返ってくるので、ボール・アウトがなかった。また、ゴールキーパーがいなかったので、手によるキャッチングもなかった。
 また、エンターテインメント性を極端に追求するフットスカッシュはレフリーが意図的にファウルをとらないようにしている。プレーヤーは倒されたあと余計に一回転しながらレフリーにファールをおねだりすることもなくなった。
 おれの波動関数理論はフットスカッシュでより有効なのだった。
 有効のはずであったのだが・・・

 いまのゲームの「流れ」をおれはすでに頭の中で関数式に落とし込み、可視化、定量化していた。その関数式が、おれの出番はまだだ、と示しているのだ。おれが出てゲームの「流れ」を変えることができるとしても、それだけでは今日の相手、絶対王者上海レッズには勝てない。それでも後半の今になってもおれにはチームを勝利に導く関数をはじき出せてはいなかった。おれの関数をひっくり返すような、つまりゲームそのものをひっくり返すような条件、特異点が必要だった。だがまだその特異点をおれは見出していなかった。おれは今このときピッチ上で喘いでいるチーム皆に対して自分の無力さを感じていた。
「戦略、戦術は勝利の確率を高めるのに役には立つ」あのときホーキングは言った。
「だが、しょせん完璧な「勝利の方程式」などないのだ」これがホーキングの結論だった。

4 特異点

 後半も三分の二が過ぎる頃ようやくゲームのリズムが変わってきた。両チームとも守備ラインを高く保持できなくなり、ピッチ中央に大きくスペースを作り始めた。両チームとも疲労のためインテンシティが弱くなった結果、ゴールからゴールへと目まぐるしく攻守がかわる「オープンな」展開、つまりグラフの波が大きく上下に振れた状態となってきた。いよいよおれの出番だった。
 どこにセンサーがあるのか皆目分からなかったが、おれの様子に気づいたホーキングがおれに声をかけた。
「やれるか」
 おれは軽くうなづいた。まだ特異点は見つけていなかったが、どうしても見つけられなければ最後の手段がおれにはあった。
 キャッシュとの交代だった。キャッシュとタッチしてピッチにはいるわたしの背後から「頼むぜ、おやっさん」とキャッシュの声が聞こえた。大音量のロックの流れるなかで奇跡的に。
「任せろ」おれはピッチ中央に向かって走り出した。

 チームはおれにボールを集めた。おれは弾き出した波動関数の計算値通りに時間とリズムをプレイで体現して「ゾーン最小化アルゴリズム」を押し返し始めた。ゲームの「流れ」はヴラジ・ヴォストークにあって、無敵の「ゾーン最小化アルゴリズム」もゲームの「流れ」を変えることができなかった。これも今現在の「オープンな展開」なればこそだ。でなければ、相性の悪い「ゾーン最小化アルゴリズム」にひとたまりもなかったろう。
 ここまでは想定の範囲内であったが、もうひとつ、得点するためのなにか、勝利するためのなにかが足りなかった。そのなにかは波動関数の特異点であるはずだった。相手のアルゴリズムを無効化して得点できるはずの条件を満たす点、特異点・・・
 おれにはその特異点が何なのか、その時点でもわからなかった。
 プロタソフが相手のフォワードからボールを力づくで奪うと、センターサークルにいたおれににあずけた。瞬間、上海レッズの四方からのスライディングがおれを襲った。逃げ場はなかった。おれを潰しにきたのは明白だった。

 このときおれの腹も決まった。
 
 上海レッズのディフェンダーの一人のスパイクがおれの右膝に食い込むのがおれにはスローモーションのように見えた。おれの右膝が砕けたのが見えた。だがこれだけでは不十分だった。さらにもうひとりのディフェンダーのスパイクがおれの左のこめかみに唸りをあげて飛び込んできた。おれの左側頭部が陥没したのがわかった。これは決定的だった。「表」の3D映像ではどう加工されているのか、なんて考えたのはずっと後のことだった。とてもお茶の間のゴールデンタイムにふさわしい映像ではなかったはずだ。

 フットスカッシュでは滅多にないファールを告げるレフリーの笛の音が大きく鳴り響いた。芝を転がりながらそれを聞いたおれは、空中に弾かれたボールに左足一本で飛びつくと素早く芝上にセットし、すでに相手ゴールに突進していたイリーナとイアンを目がけてこれまた左足を器用に振り抜いて神速のパスを出した。軸足の右足はぎりぎり最後のおれのプレイまでつきあってくれた。おれをスライディングで倒した4人はイアンとイリーナを追いかけたが二人はすでにゴール前に殺到していた。残るはゴール前の上海レッズのディフェンダー一人だけ。二対一の局面でイリーナがシュートを外すわけがなかった。やつはとびきりのシューターなのだから。

「ゴォォォォル!」というおきまりの実況アナウンサーの大音声も観客の大歓声も聞こえなかった。物理ピッチではノリのいいロックが響く中でボールが鎖のネットに衝突する鈍い音だけが聞こえた。
 審判の笛が鳴った。アジン・ノーリ(1対0)。そして試合終了。終了間際の劇的なゴールってやつだった。
 ヴラジ・ヴォストークの選手たちはおれに握手をするのでもなく荒っぽい祝福をするでもなかった。みな無言で勝利を噛みしめていたのだ。そして獲得した特別ボーナスの金額を頭の中で反芻していた。おれがそうだったからだ。
 頭の左半分と右足の機能を失ったおれにイアンとイリーナが肩を貸してくれた。ゲートをくぐってロッカールームに戻ったおれたちは並んでシャワーを浴びた。熱いしぶきを頭から浴びながらおれは失われた左目を手でまさぐった。痛みはあるがそれほどではない。おれは自分の身体に法外な金をかけて強化していたのだから。
「ご褒美に腕のいいミラーシェイドデザイナーを紹介するわよ」とイリーナが普段と変わらない口調で言った。それでもイリーナが滅多にないほど上機嫌なのがおれにはわかった。
「それも悪くないな」とおれは本気で言った。シャワーのお湯が流れる足元に目をやると、さっきまで左目の眼球が収まっていた眼窩に溜まっていたお湯がこぼれた。
「どういう計算だったんだ、いったい」イアンが笑いながら聞いた。
 残った右目の片隅でとらえたキャッシュ、ベツコイ、プロタソフの三人は特別ボーナスを指折り数えて計算するのに没頭していた。
「最後まであるはずのない特異点を探していたんだが」おれは右足を外しながら言った。
「・・見つからなかった。波動関数はしょせん確率分布だからな。ゴール内にいつボールが飛び込むかは確率からは導けない」とイアンがおれのセリフを引き継いで言った。
「それで特異点はあきらめた」おれは骨折って外した右足を抱えて、ひしゃげた膝をしげしげと眺めた。せっかくのボーナスも修理代でパーだ。
「で、境界条件に逃げた・・・」イアンが言った。
「答えのでない波動関数をファールをもらうことでリセットしたのさ」公傷としてクラブで負担してもらえるようにホーキングにかけあうか。
「勝ちは勝ちよ」とイリーナ。
「だが二度目はない。もう同じ手は使えないからな。ゾーン最小化アルゴリズムはいまのところ最強だ」おれが言った。
「別の舞台があるぜ」イアンが言った。
 サッカーがフットスカッシュに変貌したようにラグビーやバスケットボールも仮想化競技に変貌していた。とはいえ仮想化ラグビーや仮想化バスケットボールは敵味方が同一スペースで入り乱れる競技だ。ゾーン最小化アルゴリズムの縄張りだ。だが、敵味方の陣地が明確に区別されたなかでボールやシャトルを相手陣内に打ち込む、あるいは自陣に運ぶすべての対面競技に波動関数理論は適用可能なのだ。「ゾーン」アルゴリズムよりも応用範囲が広い。
「気づいていたのか」とおれ。抜け目のない奴だ。
「年棒やボーナスはフットスカッシュに負けるが、全部総なめにすれば悪くない」イアンはすでに頭の中で金勘定をしている目つきだった。
「あんたらだけ稼がせないわよ」金儲けの話に敏感なイリーナが割り込んで言った。
 やれやれ。どいつもこいつも現金なやつらだ。



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