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抗う偽善者

 ドイツに来てから早三か月が経った。十ヶ月の留学は長いぞと考えていたが、慣れてしまうと時間の経過が早いものである。日本の親や知り合いたちからなんとなく逃げたい気持ちもあって来たので、ホームシックなど一度も感じていないが、それでもたまに日本にいる友人たちと話したくなる。

 ありがたいことに「今日暇かい。」とLINEを送ると、「久しぶりに話したかったよ。」とすぐに返事をくれる友人が結構いたりする。大学で会っても「何を話そうか。」と話題が尽きることも多かったのに、さすがに9000㎞もの距離と8時間のタイムラグがあると、話したいことが沢山溜まっていて楽しい。

 そんなわけで、最近は日本にいる友人とのオンライントークにはまっている。年末には、久しぶりに高校の頃の友人であるKと話した。そっちは寒いのか、雪はどうか、コロナはどうか、それにしても受信料支払いの催促が鬱陶しいなど、他愛のない会話を楽しんだ。画面越しに人と話すことにまだあまり慣れていないが、案外悪くないなと思えるようになってきた。

「ところで、日本の大学は休学してないよね?今は何かしてるの?」とKに聞かれた。

「メジャーの授業と、あとはNFoJで執筆してるよ。」

「NFoJって、あの日本にいる外国人の人権尊重みたいなやつ?」

「いや、日本にいるミックスルーツの人の声を作品にして広めている感じかな。まあ多くは人権問題に関係してくるけど、それよりも、少しでも日本の社会が多様化を受け入れてくれるように、声を届けようとしているよ。」

「ふぅん…」Kはゆっくり頷いて、手元の飲み物をゆっくり飲んた。私はというと、我ながら上手く説明できたぞ、と一人で感慨深く感じていた。コップを口から離したKがへへっと笑うのが画面越しに見えた。何を笑っているのだろうと思っていると、Kがこのように切り出してきた。

「なんか、そういう団体ってさ、偽善者集団っぽくない?」

一瞬耳を疑った。

「え、偽善者って言った?」

「…あ、悪口とかじゃないよ!ただ、個人的な感想!」Kが慌てて手を振る。21世紀のウェブカメラでは追いつかない速さで手を振るせいで、画面に彼女の手の残像が見えて、不覚にも笑ってしまった。

「悪口じゃん。」

「違うって。でもだってさ、ぶっちゃけ無理じゃん、皆が多様性を受け入れるなんて。」

 Kの考えは間違っていない。日本中の人が多様化を理解するのは、間違いなく不可能である。そもそも人が考える「多様性」の形自体が様々だ。

 NFoJのように、本気で多様性への理解を願って、心から改善したいと考えている人々がいて、最近はかなり多くの人がそれに賛同を示すか、何も言わなくても立場的には多様性を認めるポジションにいようとする。けれど、当事者でない人々が、外国人やミックスルーツの人との多様性の意味を本当に理解しているのだろうか。何故多様性が重要なのか、別にそこまで深く考えず、ただただ「多様性はいいこと」と考えて賛同しているだけではないのか。中には多様性やミックスルーツの人などどうでもいい、むしろ反対だけど、非難されるのは嫌なのでとりあえず周りに合わせて適当に賛同している、という人もいるだろう。何でも受け入れられる人なんていない。そういうのを踏まえると、多様性を尊重しよう、と訴える人や団体も、本当に本心なのかと疑ってしまうし、正直言って胡散臭い。
 これがKの言い分だった。

「自分だって、ハーフとして考えたことないの?君たちに私の何がわかるんだ、とか。」

「あるよ。今もある。自分に対してもそう思う。」

 私はNFoJに入ってから、自分のことを「ハーフ」ではなく「ダブル」と考えるようにしたし、そう言うようにした。けれど、日本に来てから今までずっと「ハーフ」と呼ばれていたせいで慣れたからか、正直「ダブル」はしっくり来ていない。人に説明するときも、結局「ハーフ」って言った方が伝わるし、そもそも毎回国籍を主張するのも面倒だと思っている。はっきり言うと、私はダブルでありながら、「ハーフじゃない、ダブルだ。」と反発する他のダブルを見ると、「うわ、めんどくさそうな奴。」と思う。私自身、立派な偽善者なのだ。

「やっぱり偽善者の集まりじゃん。」
Kは頬杖をついてそう言った。

「そうかも。他のメンバーも、情熱でいっぱいだけど、本当は全然思ってもいないことを言っているときもあるかもね。」

よく聞く話で、褐色のミックスルーツの人は気が強いというレッテルを張られるとか、ブレイズヘアだと怖がられるとか、白人系の方がアジア系よりも周りからの扱いがいいなどがあるが、あからさまな反応はなくても、ちょっとは怖いなと思ったり、偏ったイメージを持っている人も、メンバーの中にだってひょっとしたらいるんじゃないかと思う。

「もしかしたら、本当に偽善者集団かもしれない。すべてを受け入れられる人の方が珍しいからね、いたら聖人だ。」
開き直り気味だが、私はそう思い始めた。

「そういうの嫌いなんだと思ってたから、正直その団体で活動しているの意外だよ。」
Kは多分私に、高校の頃のひねくれたイメージをまだ持っているのかもしれない。体育館の壇上に立って、当事者でもないのにスピーチを挙げる人を、心のどこかで全員「偽善者」と思っていた時期があった。

「偽善って、聞いた感じは嫌だけど、今思えば別に悪くはないんじゃないかと思う。」
Kもこれに、うんうんと頷いてくれた。

 そもそも自分と異なる背景や文化を持つ人を理解できなかったり拒絶してしまうのは、ヒトという動物としての本能である。外国人の割合が2%ほどである日本において、外国人やミックスルーツの人に対して多くの日本人が持ってしまう偏見や怖いという気持ち、極端な好奇心などは、言い訳のようだがごく自然なことである。けれど、映像をはじめとする様々な技術の発展と教育の改革により、人間は歴史の中で差別や偏見が生み出した惨劇を後世に残して考え続けることができ、それらを「よくないこと」と一般的に認識することができるようになってきた。なので、仮に心の底では差別や偏見があっても、恐らく多くの人は自分と異なるルーツの人に対して「差別をしてはいけない」「傷つけてはいけない」と考えることができるようになり、勇気がある者は関わりを持とうと頑張ってみることもある。ただ、本心でなければ、その親切も「偽善」なのである。

自分と違うし、ちょっと怖いけど、でも拒絶するのは悪いし、全然文化もわからないけど肩を持ってみよう、可哀想だから守ってあげようという浅はかな偽善から生まれる「多様性論」もあるのではないかと思う。であれば、この偽善は、裏を返せば「相手のことを本当は理解したい。」「理解できない、むしろ否定的に考えてしまうけど、せめて仲良く共存したい。」という思いなのではないか。

もちろん理想は、心の底から否定無しにお互いの存在を受け入れることであるが、それはあまりにも現実味がない。(少なくともこの時代は)

であれば、偽善だらけの世の中でも、それはそれで、進化の過程で人間が築いていった次世代的で、過去の世の中よりもずっと尊くて綺麗で、でもやっぱりどうしても汚い社会なのではないか、と思う。

「なんかすごい難しいこと言い出してるけれど…」

「あまりまとまっていないのはわかるけど、でも、偽善は別に悪いことじゃないと思うし、まだ差別や偏見が多い世の中には必要なんじゃないかって思えてきた。」

「さっき失礼なこと言っちゃったけど、きっと偽善者集団なんかじゃないよね。本気で多様化を尊重しているんだね、その集まり。」

「そうだと信じるけど、仮に本当に偽善者の集団でも、それが多様性を受け入れようと本能に抗っていることの現れなら、私はNFoJも、他に世の中で活動している団体や個人も、活動が偽善のものでも皆尊いと思う。」


 長いことKとこの話をしたが、最後にKは、頑張ってねと応援してくれた。偽善者集団と言われてしまうとショックだし、自分もなんだかんだ偽善者だなと自覚したら、少し落ち込んだが、少なくとも私はミックスルーツの人と共存したいし、幼少期のダブルとしての経験には反吐が出るが、それでも日本という国と日本人を好きでいたいので、偽善者なら偽善者なりに頑張りたい。

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