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モンスターを描き始めた学生時代に問題児扱いされていた自分がアーティストになるまでの話

10年間モンスターを描き続けたことで、有難いことにメディアに取り上げてもらったり図鑑を出版することができたりと、アーティストとして活動することができている。
今でこそこうだが、描き始めの頃はただの変わり者で問題児としか思われていなかった。今回はモンスターと共にパンクをしていた、僕の学生時代の話だ。

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新しいことを始めたり人と違うことをするとき、否定されることもある。でもそれは悪いことではない。なぜならそれが本当の意味で新しいこと、人と違うことをしようとしている証拠だから。
当時僕が描いていたモンスターもこう言っている。

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想像とは違った大学生活のはじまり

高校生のころ、バスケ三昧だった僕。まわりが普通の学部(いわゆる経済学部だとか)を志望する中で、自分が普通の学科にいくビジョンが描けなかった。そもそも絵を描くのが好きだったから、アートを学べる学科を志望することにした。

そうこうして地元の大学のデザイン学科に入学し、晴れてクリエイティブの道を志すこととなった。
最初の課題で周りが記号的なモチーフを描いている中、僕は気にせずモンスターを描いていたりして、講評の時に気まずい思いをしたことがあった。それ以降の授業でも、僕の表現したいことと授業内容の間にギャップを感じることがあった。

SNSのおかげで海の向こう側にいた理解者に出会えた

そんな中、僕がモンスターを毎日描いて記録するようになったのは、大学一年生の秋、2011年10月11日からだ。
当時ちょうどFacebookが流行り始めたころで、ふいに自分の描いたモンスターを投稿してみた。すると、全く知らない人からいいねを貰ったり「グッズを作ってほしい」とコメントが付いた。これまで誰にも理解されなかった僕のイラストへの思わぬ反響に感動した。

僕は気付いた。デザインのいろはを学ぶより、もっとモンスターが描きたいと。自由に表現したいと。本当にやりたいことはこれだ、と。心から思ったのだ。

相変わらず肩身の狭い大学生活だったが、高い学費を払って通わせてもらった大学を辞めるという選択肢はなく、この環境でモンスターを描き続けられる方法がないか考えることにした。
大学で描けないのならそれ以外の時間で描けばいい。どうすればモンスターが描けるのか、少しでもモンスターを描く時間に使えないか、日々模索する大学生活が始まった。

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アーティスト TOMASONの誕生

僕は大学時代、大学生らしい大学生活は何も送っていない。
サークルにも入らず、学園祭にも出ず、飲み会にも参加せず、授業が終われば直帰してモンスターを描いていた。

僕はモンスターを描く活動のことをTOMASONと名付け、地元の同級生と密かに行っていた。僕の大学生活はこのTOMASON活動によって形成されているといっても過言ではないだろう。
一方、大学ではこの活動で悪目立ちしていたのか、授業態度や課題のことで何度も呼び出された記憶がある。
ただ僕は誰に何を言われようとTOMASON活動の手を止めることはなかった。なぜなら本当に自分がやりたいことだったからだ。

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そんな中でも大学の課題でTOMASON活動の冊子を作ったりと、隙あらば授業にちゃんと還元(好き勝手)していた。
今思い返しても、大学で学んだことよりも数十倍、TOMASON活動で得た経験が今の僕の基盤になっている。(TOMASON活動の詳細についてはまたいろいろと掘り下げて投稿するので乞うご期待ください)

運命を分けた卒業制作

そして、モンスターと歩んだ4年間の学生生活もあとは卒業制作を残すのみとなった。卒業制作は、それぞれの学生が約1年間かけてテーマと向き合い作品を提出し卒業する、言わば大学時代の集大成的な行事だ。

同級生のほとんどは、"卒業制作のための制作"をする者が多いが、僕は迷わず、大学で4年間やり続けたモンスターを描くTOMASON活動をテーマにすることにした。
まずは、卒業制作展の会場に小屋を設置した。その小屋の中でTOMASONの個展をするプランを立てた。

これで僕はモンスターで大学生活を駆け抜けて有終の美を飾り、卒業していくはずだった、、、、、

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酷評の卒制プレゼン

運命のプレゼン当日。蓋を開けてみると僕のプランは異常なまでに酷評された。プランどころか人格まで否定された。200人近くいるプレゼン会場が凍りついたのは今でも忘れられないし、こんな大勢の前で激怒されたのはおそらく後にも先にもこの経験が最後だと思う。

僕に続いてプレゼンする子には悪いことをしたと思った。あんな空気でプレゼンするの、僕なら嫌だ。
それくらい、僕のすべてを捧げたTOMASON活動は最後の最後に否定された。正直泣きたくなるくらい凹んだ。

だけど、若かった当時の僕はこう思った。

たまたまここにいる人たちが僕の作品を理解できなかっただけだ。すでにSNSで応援してくれる人もたくさんいる。何より、作品には絶対的な自信しかない。

元々大学生活の外でやっていた活動だから最後も大学の外でやればいい。覚悟を決めた。

卒展に中指を立て個展をやることに

僕はすぐに行動に移した。
当時TOMASON活動は、地元の同級生4人が加わり謎のサポートチームができていた。4人に相談して、卒業制作展のタイミングで会場から徒歩5分くらいのギャラリービル4フロアを借りて、TOMASON EXPOという個展を開催することにしたのだ。もちろん会場費は実費なのでみんなで出し合った。4人のおかげで会場費を納めることができた。

そして僕は卒業制作展に宣戦布告した。

それからというものの映画ロッキーのスタローンの如く、虎視眈々とTOMASON EXPOの準備を始めるのだ。
僕を含め5人のメンバーで約1年間かけて壮大な個展、いや万博を計画していった。4フロアを使って沢山のアーティストや観衆を巻き込む前代未聞の内容だ。

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開催当日までに僕が実行に移したこと。

・ビラ配り 
・告知動画(200本以上)
・カウントダウン画像(1年前から)
・コラボアーティストのキュレーション 
・大量の作品制作 
・プレスリリース(地元の雑誌やラジオ出演)
・TOMASON NIGHT FES(前夜祭)の開催etc.

思いつくことは全て実行に移した。これも打倒卒展のため。いや、お世話になったモンスター、TOMASONで有終の美を飾るため。

景気付けに前夜祭もやった

なかでも、この前夜祭の開催はものすごく思い切ったと思う。
田舎の学生、しかも知名度0で個展を開催するだけでもハードルが高いのに、前夜祭を開催することは大きな賭けでもあった。集客ができなければ告知にならないどころか個展の会場費が重くのしかかる。

僕は当時P.O.Pというラップグループの”watch me”という曲がすごく好きだった。学生生活の集大成の前夜祭。絶対にP.O.Pに出演してもらいたいと思った。僕はアポをとってすぐに岐阜から東京に会いにいった。そしてP.O.Pの出演が決まった。
前夜祭は大成功だった。沢山の方々に僕の個展TOMASON EXPOを知ってもらうきっかけになったと思う。なによりも最高に楽しかった。それだけは間違いない。

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そして運命の決戦日

とうとうこの日がやってきた。卒展の当日であり個展の当日。
当たり前だが僕は卒展の会場には行かずに、自分の個展の会場に在廊する。卒展にはTOMASON EXPOのフライヤーを置いて個展会場で待つ、とメッセージを残しといた。

個展は大盛況だった。本当に多くの人が足を運んでくれた。知り合いもそうじゃない人も沢山来てくれた。
あの個展はTOMASON5人の熱量と多くのサポートしてくれた人たちの思いが化学反応を起こし、とてつもないパワーを放っていた。

そして、本来は卒展で会うはずの教授も足を運んでくれ、僕に一言いった。

「卒展よりもこの個展の方が面白いぞ」

その言葉を聞いて心の中でエイドリアーン!!と叫んだ。ひっくり返してやった。モンスターと仲間たちと駆け抜けた4年間だった。自分を信じてよかった。
こうして僕の初個展TOMASON EXPOは幕を閉じた。

理解者はきっとどこかにいる

僕は今、自分でギャラリーを立ち上げて展示を企画したり自分の作品を販売して生活している。学生時代に起こしたアクションやコネクションが今の僕の財産になっていることは間違いない。あの経験がなければ僕は今頃違うことをしているだろう。

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当時のTOMASONメンバーと

誰からも理解されずに絶望していた学生時代。僕はふとしたきっかけで良き理解者に巡り逢うことができた。
そして、それまでただの落書きだったモンスターの絵は、僕をアーティストにさせてくれた。
もしも今同じ苦しみを味わっている人がいたら、ぜひ外に目を向けてみて欲しい。世界は思ったより広くて狭い。あなたのことをわかってくれる人はきっといる。

そしてなによりも。
応援してくれる理解者に出会えたら、絶対に感謝の気持ちを忘れないで欲しい。






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