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愛と恐れは表裏一体

数日前、生後7日くらいの赤ちゃんの首をしめて殺害した母親の記事が出ていました。自粛中だからこそ、この閉鎖的な環境に心配が募ります。
モヤモヤしすぎて、手が出てしまいそう、出てしまう・・というお母さん、ご連絡ください。お話聞きますよ。

虐待のニュースが絶えない昨今。ニュースを聞く度に、虐待をされる子どもと、虐待をしてしまう親のことを思い胸が痛みます。

私が保育士1年目に務めた保育園は、虐待が日常茶飯事でした。
0歳児から5歳児までの子ども達が毎朝まっすぐ整列させられてラジオ体操第一をする姿は異様でした。列を乱したり、きちんと体操しない子は、大きな声で怒られたり、突き飛ばされたりすることがありました。クラスの子ども達をきちんと整列させられない時は「〇〇先生、ちゃんと叱って並ばせなさい」と名指しで放送されました。
私が担任していた1歳児はイヤイヤ期の真っ只中。嫌がる子どもに言うことを聞かせようと、大きな声を挙げざるを得ない毎日は苦痛でした。
私はそれに対抗することもできず、ただただ平穏無事に一日が終わることだけを考えながら過ごしていました。
その保育園は、子どもも保育者も恐れに縛られていたのです。

言うことを聞かずに怒られると、恐れる子ども。
虐待されている子をかばうと自分がいじめの対象になると、恐れる保育者。
目に見えない恐れにがんじがらめになっていました。

保育園の中の世界が全てかのように見えて、他に世界があることも考えられなくなってしまう…そんな体験でした。
きっと虐待をしてしまう親も、狭い家の中で子どもと自分だけの、出口がない世界なってしまっているのではないかと思います。


この地球は相対的な世界です。
なので「恐れ」があれば、もう一方の側面として「愛」があるのです。
虐待やストーカーなどは「“愛”だと思っていたのに“恐れ”を生んでいた」ということが多く、「愛」と「恐れ」は表裏一体であることがわかります。

太陽から地球に入ってくるエネルギーも相対的に2つに分かれます。
1つのエネルギーが「愛」と「恐れ」という2つの側面を持ちます。
一人ひとりの人生の中でも「愛」と「恐れ」の両方を体験することになります。
そして、地球に存在する私たち人類のテーマは“愛”です。

先に書いた、虐待は“恐れ”から来るものです。他にも、“恐れ”から来る体験は身近にあります。

“恐れ”から来る体験
・新しいことに対して、「できるかな?」「失敗したらどうしよう」「この先どうなるんだろう」という恐れ
・自分のもの(大切な人、財産、地位や名声)を失うことへの「無くなったらどうしよう」「とられたらどうしよう」「自分の人生がかかっている」などという恐れ
・人々や物事や状況を自分と比較・競争し、「負けたらどうしよう」「自分が悪い・自分はダメだと思われたくない」という恐れ

このような“恐れ”の体験があるから、反対の“愛”である体験が際立ちます。

“愛”である体験
・豊かさ、分かち合い、善意、助け合いの体験として、震災等での救済の行動は、物質ではない心の豊かさが表現
・平和、平安、幸福、喜びの体験は、優雅で穏やかな時間や空間、場から感じられる

「“愛”のないところには“恐怖”があり、“恐怖”のないところには“愛”がある」と言われています。
人生の中での出来事や行動は、この2通りの選択の連続のように思います。


ダライ・ラマ法王やマハトマ・ガンジーは「非暴力」を説いています。
「非暴力」は、愛の行動です。その行動は、恐れがあっては成し遂げられないことでしょう。

“恐れ”は人を弱くします。そして外側(見た目)だけを強く見せます。
“恐れ”である時、そこには信頼がありません。
“恐れ”が敵を作ります。
“恐れ”が依存を作ります。
“恐れ”が、競争・暴力・戦争の正体です。

私たちは地球に愛を顕現するプロセスにいます。
私たちは、まだまだ「愛とは何か」ということを、よくわかっていないのかもしれません。
薄っぺらなではない、深い愛とは何なのか…

一人ひとりが人生の中で様々な体験をしながら、見つけて行くものだと思います。

何に迷ったときには、「愛であったらどうか?」と自分に問いながら、愛である行動を選択する。その私たちが存在することが、世界の・地球の平和に繋がるのだと信じています。

http://www.new-edulittletree.com

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