優しく穏やかな時の流れの中で育つ
私はクリシュナムルティというインドの教育者の言葉が好きです。
愛に満ち溢れシンプルな言葉に、いつもハッとし、考えさせられます。
クリシュナムルティの「子供たちとの対話」という本の一節にあったこの言葉が私の心に響きました。
シンプルな愛とは何か理解できるでしょうか。性愛の複雑さでもなく、神の愛でもなく、ただの愛、すべてのものへの接し方全体が優しくて、本当に穏やかなことなのです。
私たちは、いつも忙しくて、すべてのもの・ことに対し、丁寧に優しく接することを省いて、効率的な行動ばかりになってしまいがちです。それでは、本当に穏やかである時間は訪れません。毎日、“シンプルな愛” がない生活をしながらも、その“シンプルな愛”・・優しさや穏やかさをいつも手に入れたいと望んでいる私たちなのではないでしょうか。
私自身も、保育の中での忙しい時間帯や自分が思うように保育が流れていかない時には、途端に頭の中が忙しくなります。
頭の中で、“今、◯時だから、次はこう促して、それから・・”と、どのように効率よく子ども達やスタッフを促すかを、ロジカルに計算し始めます。
でも、そのことで失っているものは、先述した“シンプルな愛”です。
目の前の子ども達の心の動きや興味・関心よりも、こちらの都合にいかに合わせるかという思考になり、優しさや穏やかさよりも、目の前のやらなければならないことに追われてしまうのです。
子育ての中で、こうした体験をしている人は多いと思います。
私が、保育の中で一つ体験していることがあります。
それは、自分の頭の中で囚われていることを手放した瞬間に現れる、穏やかな時間です。
「少しくらい遅れても大丈夫」
「これはどうしてもやらなければいけない訳ではないな」
「今、できるようにならなくてもいいことだな」
などと、自分の頭の中で作り出している
“こうしなければならない”という思い込みや
“こうしたい”という願望に気づき、
そして「やらなければならないことは何もない」と、そのことを手放す。
すると・・
その瞬間、時間が穏やかにゆっくり流れ始めるのです。
不思議なことに、今まで自分の目に映っていた世界が変化していくのです。
その穏やかでゆっくりした時の中で、目の前の子どもと目を合わせ、心を通わせ、優しく穏やかな瞬間を体験します。
これこそが“シンプルな愛”の体験なのだと思います。
優しく穏やかな時の流れの中で育つ子どもは、自分のありのままを見守られている安心感があり、自分を自由に表現し始めるでしょう。
子どもは、様々なことを感じ取ります。
ネガティブなエネルギーは特に敏感に感じ取るようです。
そしてそれを見ないように、触れないように過ごそうとします。
夫婦喧嘩の声を聞こえていないふりをしたり
イライラしている大人の傍には行かないようにしたり
わざと鈍感であるふりをします。
鈍感とは、見ていないふり、聞こえないふり、感じないふりのことです。
大人の小言が多くなると、「はーい」とやり過ごしたり、「ごめんなさい」と簡単に謝ったり、泣くまで叱る大人の前だと仕方なく泣いてみせたり・・子どもなりに空気を読みます。
こうした子どもは、大人のエネルギーに敏感でありながら、自分の心には鈍感にならざるを得なくなるのです。
元々持っている子どもの敏感さが、ポジティブな方向へと働くと‥
生き物を大切に扱い、労わります。
花をちぎることを止め、大切に扱います。
花の香りに気づき、花の色や繊細さを楽しみます。
人に優しくなり、気配りをします。
ものを大切に、優しく扱います。
「敏感であるとはどういうことでしょうか。それは、物事に対し優しい感情を持つということです。
人間にはものを壊したり、人を傷つけたりしたくないという自然な願望があり、それが本当の尊敬、愛があるということです。」 クリシュナムルティ
人が敏感であるとき、「今、目の前のもの・こと・人と一緒にいる」という状態が生まれるのではないでしょうか。
“今、目の前の花と一緒にいる”
“今、目の前の子どもと一緒にいる”
“今、目の前で作業していることを一心にやる”
評価や判断・分析など、頭で考えている状態ではなく、
観察や傍観・無意識になっている状態でもありません。
本当に、実際に、“今、目の前のもの・こと・人”を体験している状態です。
“今”を体験した瞬間、私たちは新しい発見や一体感、愛おしさなどを感じ、周りにも優しさと穏やかさが現れます。
この優しさと穏やかさこそが愛であり、それを感じられる自分を手にいれることが人の成長であり、最高の喜びなのではないでしょうか。
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