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「無執着である」≠「諦める」

「まぁ、いいか」・・私の口癖です。
  子どもたちが話を聞いていない時
  洗濯物を地面に落としてしまった時
  料理の味がイマイチ決まらない時
そんな時に気づくと「まぁ、いいか」と呟いています。

その時の自分はどういう状態かというと、力が入ってなくて、起きていることに対して“良い”とか“悪い”とかの考えはなく、感情にも怒りやイライラはなく逆に笑い飛ばすくらいの軽さがあります
そして「まぁ、いいか」でその時自分が望んでいた結果=執着を一度手放す儀式をしているような感覚です。
「まぁ、いいか」と言うことで、「さぁこの後どうしよう」「じゃあ、これはこうしよう」と、次への対処や違う結果に切り替えているのです。

※“執着”については『執着から新しい可能性の世界へ』を読んでみてください

「まぁ、いいか」で済ませない時ももちろんあります。
  自分と関係が近い家族や兄弟・親の問題
  自分の思い入れが強く、大切にしていること・もの
これらが関係すること・ものになると、途端に「これでは良くない」と力が入り、感情も過度に悲しんだり、怒ったりし、戦いモードになりがちです。
自分に関係が近ければ近いほど、“平常心”を保つことが難しいのです。

私にも「まぁ、いいか」で済ませられない体験がありました。
あるお母さんの子育てブログを読んだ時、その中で「それは違うでしょ!」と、自分の中でスイッチが入る箇所がありました。
そのブログの内容は、「自分の理想の子育てを頑張っていたが、頑張るのをやめたら子どもとのぶつかり合いがなくなった・・」と前半は書いてあり、それに関しては“良し”と判断しながら読んでいた私でした。
でも後半に・・「だから子どもの好きにさせるようにした。子どもは一日中テレビの前に座り、スマホを手放さない日々。でも私はそんな子どもたちを暖かく見守っていこうと思う。」ということが書いてあり、それを読んだ途端「それは違うでしょ!」と反応した私でした。“悪い”と判断しているスイッチがオンになった瞬間でした。

私は教育・保育に関しては、想いが強いので「まぁ、いいか」にはなれません。「教育・保育の質を上げる」ことに揺らがない私なのです。教育・保育に関しては簡単に「まぁ、いいか」とはなりません。
「まぁ、いいか」としてしまうと、この場合は“諦め”だからです。

このお母さんのブログから私に伝わって来たことは、執着していた自分の育児の方法を“手放す”ことができたつもりで、“諦め”になってしまっていることでした。
自分の子どものこと・家族のことになると“平常心”でいることが難しいのです。けれど「執着することをやめた」「コンロトールしようとする自分をやめた」と同時に、『子どもの育ちへの想い』を放棄してしまうのは“諦め”なのです。

「まぁ、いいか」ということは、それまで執着して握りしめていた自分の考えに“無執着である”という状態です。
その「執着していた考え」とは、自分が望む “結果” と “期待” です。その結果と期待を手放していることが、“無執着の状態”です。
大きな方向性としての創り出したい結果・ビジョンまで何もかも手放してしまうことではありません
それを何もかも手放してしまう状態では“諦め”になってしまいます。

方向性やビジョンへ“意図”を持ち続けることが大切です。
“意図”を持ち続けることで、その方向性やビジョンに向かって行くのです。

“無執着”と“諦め”の違いは、「あり方」に現れます。

“諦め”のあり方だと、子ども達が何をしようと見て見ぬ振り・・。電車の中で子ども達が騒いでも、横でスマートフォンの画面から目を離さないお母さんをよく見かけます。「どうせ言ったって聞かないから」「この子達はいつもこうだから仕方ない」と諦めが行動に出ているように見えます。

“無執着である”とは「注意をしない」とか「子どもに何も言わない」ということではありません。子ども達のそのままの状態を見ていて、自分の子育ての方向性や想いからの行動が表現されることです。

電車の中で見かけた親子のやりとりから、手放している=無執着のあり方をお母さんから感じた出来事がありました。
子ども達が電車の中で騒ぎ出すとさりげなく、「あ!みてみて。あれってさぁ・・」と話しかけていました。子ども達は「え?なに?」とそのお母さんの言葉で我に返って、お母さんとの会話を楽しみ始めました。そのお母さんは静かなトーンで話していたので、子ども達もその静かなトーンで、穏やかに話し始めたのが印象的でした。“注意をする”という方法ではなく、子ども達の騒ぎを収めていました。
そのお母さんは「子ども達を静かにさせなければ」という考えは手放しているように見えました。ただ「静かにする」「周りに迷惑をかけない」という明確な方向性から表現された言葉で、穏やかな雰囲気を自然に創り出していたのです。

大切なのは、どっしりとした “自分(あり方)” を持つこと。
それでいて柳の木のように風とダンスができるような柔軟さが必要です。
「こうするべきだ」と力を入れて目の前の出来事に向かって行くと、ポキっと折れてしまい、“諦め”に繋がります。
時には「まぁ、いいか」と一旦“手放し”、そして“創り出したい大きな方向性・結果”への意図を持って、次の可能性を創作する。

こうして日々の人生を歩みながら、自分の“あり方”から自分の“器”を大きくしていくのです。

私たちは知らず知らずに根っこが大地から抜けて、ふわふわと周りに流され、自分の望んでいる方向から外れていることがあります。
「私はどういう存在であるのか」=Be(あり方)という、自分の根っこを常に確認しながら歩んでいくことが大切なのです。


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