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僕たちは「失われた世代」なんかじゃありません。

「ゆとり世代」と呼ばれ、先行世代から「何かが足りない若者たち」という印象を抱かれている僕たち。

「ロストジェネレーション」という言葉は、正確にはバブル崩壊後に就職時期を迎えた38-48歳ぐらいの人たちの世代を指すけれども、「ロスト」という響きは、経済成長を終えた時期からずっと鳴り続けているように思える。

僕たちには、「ここから社会はもっと良くなっていく」という確かな希望に裏打ちされた雰囲気を知らない世代だ。

「もっと豊かな生活が待っている」と信じられた高度経済成長期を体験した人たちとはそこが違う。

何を目指して社会が、国が、人民が、僕たちが動き、働いているのかが不明瞭なのだ。

ゴールがよくわからなくなったから、そんなに頑張らなくてよくなり、「ゆとり教育」が生まれ、「ゆとり世代」というあまり出来のよくない若者たちが社会を支えることになってしまった。

これが、我が国における「ロストジェネレーション・ストーリー」とも呼べる失敗例とされている。

だが、若い世代に伝えたいのは、そんな絶望やディスアドバンテージの事実などではない。

僕たちは、「希望の世代」なのだ。

よく考えてみてほしい。高度経済期はなぜあれほど栄えたのか?経済はなぜ盛り上がったのか。

それは、「まだまだ足りないものがたくさんあったから」だ。

食料、家電、文化的な生活を送るためのサービス、インフラ、PC、娯楽など。

人々が「健康で文化的な最低限の生活」(日本国憲法第25条)を送るために必要なものをたくさん作る必要があり、それらを企業が作ればみんなが買い、この国の経済は隆盛した。

だが、スマホが誕生し、映像作品や音楽は月額980円で視聴し放題になり、食事や生活必需品は10秒もあれば数分〜数日後に玄関まで届く。文明も、文化も人が生きる上で必要十分な状態が実現した。

これにより、相対的に「どうしても買わなくてはいけないもの」が少なくなったことが、GDPの停滞の主要因と考えられる。

先行世代の諸先輩方々は尽力してくれた。

僕たち、若輩者はその功績に対して感謝して然るべきだと思う。

しかし、だからといって謙虚になりすぎたり、自信喪失する必要はない。

僕らが必要なのは、「ゆとり世代」あるいはそれ以降の若い世代が持つべきものは、先行世代が作り上げたこの奇跡のような環境の中で、いかに面白いものを創り上げ、社会的な課題を解決していくか、ということだと思う。

今の日本では、国際戦争にも民族紛争にも巻き込まれず、治安はよく、蛇口をひねれば綺麗な水が出て、中学までの教育を必ず受けることができ、1人1台スマートフォンという魔法のような機械を持つことが許されている。飢餓はほとんどなく、3割負担で最先端の医療を享受することができる。

その上で、何をするかだ。

あなたは考えたことがあるだろうか。「この社会をどういう風にデザインしようか?」と。

「社会彫刻」という概念がある。芸術家ヨーゼフ・ボイスが提唱した、あらゆる人が社会に対し自分の感性や考えのもと、それを良きものにしていくために行動しなくてはならない、という姿勢を指す。

1人1人は、「社会」という作品を設計し、クリエイトする芸術家であると捉えるのだ。

「最低限必要なものはすでに揃いました。

さて、あなたなら、今の社会をどのようにデザインしますか?」

そのようなあまりに贅沢な問いを僕たちは投げかけられているのだ。

その問いこそが、「ゆとり世代」あるいは広義の「失われた世代」が受け取ったパスである。

「ゆとり教育」は、それに答えるため、知識を詰め込んでいた時間の替わりに、自由な発想を身に着けるトレーニングをしてください、というメッセージでもあったのだ。

実際は、そのメッセージを受け取る以上に、学問的知識と教養の習熟度低下というデメリットが上回ってしまったのかもしれない。

だが、その方向性に関しては間違っていなかったと僕は思う。

僕たちには、真っ白なキャンバスが用意されている。

あとは絵を描くだけだ。

もちろん1人で社会を変えることはできないが、そのキャンバスに絵を描こうとする若い世代が多数現れ、彼ら彼女ら、いや、僕たちが連帯することができれば、この社会をより善きもの、面白いものに変えていけると確信している。

僕たちは「失われた世代」なんかじゃない。

未来に開かれた自由を手にした「アーティスト世代」なのだ。

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