文科省の不登校対策を考える
文科省は「学校教育施行規則の一部を改正する省令等(案)に関するパブリック・コメント」を募集した。
内容は、文科省が設定した基準(成績評価の3要件)を満たせば、不登校の子どもたちが学校外で学習したことを成績として認め、指導要録に載せられるようにする、というものである。
私は、改正案には不登校の定義に問題があり、また、不登校の子どもたちの学びについて全く理解が足らないなどを指摘し、改正の必要なし、むしろ有害であるとのコメントを送った。そのコメントを以下記載するので、よろしければ読んでみてください。
学校教育施行規則の一部を改正する省令等(案)に関するパブリック・コメント
2024年8月14日
1.はじめに
これまで文科省が行ってきた不登校対策は不登校を無くすことができなかった。それどころか、不登校の子どもたちは30万にも増えてしまった。これは、不登校の原因を不登校の子どもや親にあるとした対策をしてきたからである。そんな長年の不登校対策の最新版が「COCOLOプラン」だ。
しかし、新たに対策本部を設置し、予算を増やしても、そして、地方に働き掛けても、「学びの多様化学校」や「校内教育支援センター」の増設などの一時的な現象は起きているが、不登校を減らしたり、なくしたり、更には、不登校問題を根本的に解決(解消)することなど期待できない。なぜなら、「COCOROプラン」は不登校を生み出している学校教育を前提としているからである。
2.学校教育施行規則の一部を改正する省令等(案)について
さて、学校教育施行規則の一部を改正する省令等(案)についてであるが、現行のままでできることであり、わざわざ、省令を改正する必要はない。その上で、次の二点を指摘しておく。第一点は不登校の定義が適切ではないということ。第二点目は令和元年の通知はなんら効果がなかったこと。これを法令上明確化しても、多くの不登校の子どもたちには意味のないことである。以下、その理由を述べる。
(1)不登校の定義について
第1点目の不登校の定義についてである。第57条2項は、不登校の児童を「学校生活
への適応が困難であるため相当の期間小学校を欠席した児童」と定義している。これは、不登校の定義を変更し、変質させるものである。
1992(平成4)年の学校不適応対策調査研究協力者会議は、「連続又は断続して年間30日以上欠席し、何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、児童生徒が登校しないあるいはしたくともできない状況(ただし、病気や経済的な理由によるものを除く)。」と不登校を定義とした。
しかし、2016年の「教育機会確保法」で、「不登校児童生徒」を「相当の期間学校を欠席する児童生徒であって、学校における集団の生活に関する心理的負担その他の事由のために就学が困難であるとして文部科学大臣が定める状況にあると認められるものをいう。」と限定的なとらえ方に変更した。
また、教育機会確保法の「基本指針」では、これまで、「不登校については、特定の子どもに特有の問題があることによって起こることではなく、どの子にも起こりうる」ものとして捉えていた不登校に対する認識を、「不登校は、取り巻く環境によっては、どの児童生徒にも起こりうるもの」と条件付きの認識に変えている。
そして、改正案第57条2項の規定は、「学校生活への適応が困難であるため相当の期間小学校を欠席した児童」と、不登校の当事者本人に原因があるかのように限定し、不登校の定義をさらに変質させている。
これらの定義や認識の変更が、どのような経緯で、どのような根拠で行われたかは説明されていない。
不登校の子どもたちが不登校をどのように捉えているかを知る資料として、2001年、2011年、2022年に文科省が行った不登校当事者や経験者への「実態調査」と「追跡調査」がある。それらによると、不登校当事者や経験者が挙げる主だった不登校の要因は、「勉強が分からない」、「いじめ(友達関係)」、「先生との関係」にあることが分かる。「勉強」「友達」「先生」といえば学校を構成する主要な要素である。つまり、不登校は学校(学校教育)そのものに起因していると捉えているのである。これは、子どもの「無気力」が不登校の主要因とする「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」の結果と大きく乖離している。
「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」の回答者は先生(学校)である。先生(学校)と当事者(子ども)の捉え方は大きく食い違っているのである。
改正案第57条2項の規定は、子どもたちの心情とかけ離れ、不登校の児童生徒の実態と大きく隔たっている。この定義変更は、恣意的であり、不登校への誤った認識を助長するもので、むしろ、有害とさえ言わざるを得ない。
(2)令和元年通知について
第2点目は、令和元年の通知の有効性についてである。令和元年の通知が出て5年が経ったが、不登校は減るどころか、増え続け、不登校の子どもは30万人を数えるようになった。もし、通知が、学校や地域、行政の現場で支持や共感を得て実践されていたら、これほどひどい状況にはならなかったのではないか。
今回の改正(案)は令和元年の通知を法令上の明確化するためであると言うが、そもそも、成績評価と不登校の子どもたちの学びとの間には大きな齟齬があることを指摘したい。不登校の子どもたちの学びの評価は、一人ひとりの状況に合わせて行うことが肝要で、教育課程に応じた成績評価にはなじまない。成績評価なら、現行の省令でも行えるので、学校教育施行規則の改正は意味を持たない。故に、敢えて改正する必要はないと考える。
不登校になるとはどういうことか、文科省は理解できていないのではないか。不登校は過酷である。学校に入学する時には、勉強することを楽しみし、頑張るぞという気持で入学式を迎えたはずの子どもたちが、自信喪失、自己否定、無力感、絶望感等々、望んでもいない状態に追い込まれ、学校に行けなくなることである。
不登校になって、学校や勉強が嫌になったり、何かをすることも、考えることもしたくなかったりすることもある。その時期を、「エネルギー補給中」「元気注入中」「自分探し中」などと言い聞かせ、我慢し、見守ってきたのは不登校になった子どもであり親であった。不登校になる過程で失った自己肯定感の回復こそが、子どもたちが一歩前へ進むための原動力になる。一度失った自己肯定感を取り戻すのには時間がかかる。子どもが安心できる環境と寄り添う人がいる日々の生活の中でこそ自己肯定感は育っていく。学習や勉強がはじめにあるのではない。
不登校でも、子どもたちは、再び、学び始めている。学ぶことは子どもの欲求であって、成長に欠かせないものだからである。そして、不登校を経験した多くの子どもたちは不登校を乗り越え、自らの進路を切り開いている。文科省の行った「追跡調査」が物語っている。
不登校の子どもたちの多くは、一日の大半を家庭で過ごしている。教科書を開いて勉強する子もいれば、先生が届けてくれた宿題をする子もいる。漫画を読んだりテレビを見たりゲームをして過ごす場合もある。趣味や興味に耽ることもある。これらは、どれも、子どもたちにとっての学びである。子どもたちの学びは多様である。学校の勉強だけではない。
学校に行っていないから、勉強の内容も時間も自分で考えなければならない。私の知っている子の中には、外国映画を見て英語に興味を持ち、外国語の勉強をするために大学まで行 った子がいる。ゲームに興じてプログラマーになった子もいる。マンガの絵の写し描きから絵が好きになり美術の専修学校に進んだ子もいる。読書三昧の子もいた、その子の国語力は素晴らしかった。そして、それぞれが、今はしっかりと地に足を付けて生活している。まさに、人それぞれである。
2023年度の「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」によると、学校内外の公的な施設で、あるいは、民間の施設・機関で学んでいる子どもたちもいる。指導要録上出席扱いとなった児童生徒は32.623人である。教育支援センターの利用者は25.292人、民間の施設や機関の利用者は12.089人である。これらの子どもたちは、不登校全体の二割ほどである。
一方、学校内外の施設・機関等において全く相談指導を受けていない児童生徒が114.217人もいる。不登校の子どもの38%である。相談・支援の枠外にいる子どもたちが大半である。このことは、成績評価の要件を満たすことの困難さ、不登校の子どもたちとの信頼関係を築くことの難しさを教えている。
不登校であっても、時期が来れば進級することも卒業することもできる。不登校の子どもにとっては、そうしたことが大きな節目になったり契機になったりする。中学校卒業が進路選択の時期でもある。就職もできるし、アルバイトもできる。そして、高校等への進学もできる。今は学校も多種多様で、不登校であっても多くの学校が受け入れてくれる。
普通高校のほかに定時制高校、単位制高校、通信制高校、専修学校、専門学校、高卒認
定試験等々、自分に合った場所や方法を選んで学ぶことができる。成績評価は自ずと付いて
くる。
なぜ学ぼうとするのか。それは、成長の為であり、自立の為であり、自己実現のためである。そして、その過程で、失った自信や希望、可能性さらには自己肯定感を取り戻して行っているのである。これが、不登校の子どもたちの学びの意義であり、自らに対する評価ではないのだろうか。
不登校の子どもたちの学びに義務教育制度を前提とした成績評価が必要だろうか、不登校になることによって縁のなくなった「成績評価」という尺度を再び持ち込むことにどれだけの意味があるのだろう。
現行の学校教育施行規則の下でも成績評価はできる。成績評価を必要としている不登校
児童生徒には支障はない。敢えて、法改正の必要はない。
3.不登校対策よりも学校教育の改革が必要である。
いったん不登校になっても、学校に行けなくても、子どもたちはふたたび学び始める。子どもは常に成長・発達を続けるし、その可能性を持っている。そんな子どもたちが通えなくなる学校は、もはや学校の体をなしていないと言わざるを得ない。
成績評価は「我が国の義務教育制度」が前提となっているが、不登校の子どもの数が30万人も存在すること自体が、その「義務教育制度」が機能せず、崩壊していることを物語っている。日本国憲法ではあらゆる子どもの学ぶ権利を保障している。義務教育はそのためにある。不登校を生み出している義務教育制度、学校教育の在り方を根本的に見直し、改革する時ではないだろうか。
そのために、当事者・経験者の声を聞くことを勧める。不登校の当事者や経験者への綿密な追跡調査・実態調査を実施して、不登校の実態・真相の徹底的な究明をする必要があるのではないか。
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