見出し画像

『食う寝る坐る永平寺修行記』を読む

出家、修行、雲水、座禅、永平寺、どれも日常生活の中で縁のない単語ばかり、という人も多いだろう。あ、そういえば僕はこの夏前から月に一度座禅会に行く寺が行徳にある。僕がこの本を読もうと思ったのも、坐禅会がきっかけなのかもしれない。

行徳の座禅会に初めて行ったとき、その会を司る人から「座禅とはこうするべし」を教わった。何も知らずにノコノコ行ったものだから、ここで一礼、ここでも一礼、手の組み方はこう、など意外と細かいことにやや面食らった。

しかしなんで僕は座禅を組むようになったのだろう。自分で自分の心境の変化がわからないままでいる中、この本に出会ったのだった。

しかし行徳の座禅会と永平寺での修行は根本的に違っていた(あたりまえだ!)。出家をするとはかくにも壮絶なものなのか?そして出家とは人生を変えてしまうものなのだ、ということがよくわかる一冊だった。上下関係、しきたり、礼儀、すべてが厳格で教える側も教わる側も真剣そのものだ。世間では暴力と呼ばれることも正当化される。

この本の中で、僕はこの一文に心揺さぶられた。

「殴られ蹴られして叩きのめされるたびに気分が楽になった。今までは傷つくまい、壊れまいと体裁を必死に取り付くっていたことを思い知る。そしてとりつくものがなくなるとむき出しになったものそれが紛れもなく自分自身であった」(187ページ)

それはしがらみなんていう軽い言葉ではなく、プライド、無意識の自己防備、外面。なんと言えばいいのだろう、永平寺とは社会で今の自分立ち位置を守るための鎧が剥がされる場所なのだ。

「人間は立って半畳、寝て一畳」なんていう。出家とはもっと人生を賭けた出来事だけど、僕にとっての鹿児島はいろいろなものを捨て去る場所、機会でもあった。知り合いのいない場所、東京からの遠い距離、知らない町並み。刺激の少ない街。鹿児島ではいろんなことがリセットされた4年間だった。読みながらそんなことを思った。

著者は出家から一年して永平寺を降り、都会の生活に戻る。
出家前と何が変わったのだろうか?

「忘れ去るのも人生」

と彼は言う。自分自身以外は何も背負わない、著者はそんな生き方を修行から学んだのかもしれない。

ここから先は

0字

¥ 100