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【翻訳記事】遊びと学びの自由を子供に委ねるとどうなるか?

教室も、宿題も、成績付けもない学校が、じっと座って頷く能力ではなく創造性と想像力を伸ばす。


世界の多くで、教育とは耐えねばならないものとなってしまっている。新世代の子供たちは、成功の主な評価基準が履歴書と給与明細となる出世競争の走り方を学びつつある。安全圏の外に出たり、夢見たり、挑戦したり、空想にふけったり、冒険したりしようとしない世代だ。

まったく異なる人間性の見方を学校は提供できるだろうか?自分がやりたいように遊んだり学んだりする自由を子供に与えたら、どうなるだろう?

新著の研究中に私の心を最も動かしたのは、オランダにあるそんな学校に訪問したことだ。アゴラと名付けられたこの学校は、子供たちが元から持つやる気を頼りとしている。そこには授業も教室も、宿題も成績付けも、テストも時間割も存在しない。スタッフの立場の上下もほとんど存在しない。多くの場合、この学校には一切のヒエラルキーがない──生徒たちが先生なのだ。

アゴラでは、年齢や学力、社会経済的な背景によらず全ての子供が一緒になっている。差異は当然のものとみなされるため、そこではいじめが存在しないということに私はすぐに気がついた。いじめは子供に付き物であるとしばしば思われている。(ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』に影響を与えた類の)イギリスの寄宿学校のような、いじめの風習がある場所についての集中的な研究を収集した社会学者たちは、その通りではないという。驚くに値することでもないが、これら寄宿学校は監獄に似ているのだ。抜け出すことはできないし、強固なヒエラルキーの中で己の立場を見つけなければならない。また、そこの生徒と教員たちの間には厳然たる境界がある。

今の時代、我々は何十億もの金をかけ、最高の才能を持つ者たちのキャリアアップを応援している。しかし、頂点に立ったときに彼らが自らに問いかけるのは、『これが一体何だというのか』という疑問だ。47の先進国で近年行われた研究では、1/4の労働者は自らの仕事の重要性を疑っている。これらの"無意味な仕事"のほとんどは、私企業──銀行、広告代理店、法律事務所──に存在している。その一方で政治家が伝えるのは、我々はもっと教育を受け、より多くの金を稼ぎ、経済をより"成長"させなければならないということだ。

しかし、そんな学位がいったい何を表しているというのだろうか?学位が証明するのは、創造性や想像力だろうか?あるいは、じっと座って頷く能力だろうか?これは哲学者のイヴァン・イリイチが何十年も前に言っていたことに似ている。「学校とは、社会はこういうものであると信じ込ませるための広告代理店である」と。

アゴラのような学校は、別の道があることを証明してくれる。問うべきなのは、我々の子供たちは自由をうまく扱えるか?ということではない。問うべきなのは、子供たちに自由を与える勇気が我々にあるか?ということだ。

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