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紀伊勝浦③

5/1昼

さすがにお金、使いすぎじゃない?と思ったので、コンビニにしようかなと思いつつ、近くにちょっとしたお店があればいいなと思い家を出た、12時。旅行中とはいえ、数百円で済ませる日があってもいいでしょう。

紀伊勝浦に降り立ってからずっと天気が悪いが、今日は特に悪い。こんなに雨が強く降っているのは今日が初めてだ。

途中パン屋さんを見つけたが、昼ごはんにはは違うと思いいったんスルー。昨日の夜も一昨日の夜も歩いた川沿いに出た。すぐ奥の方で太平洋とつながる、那智川の最下流である。昼は初めてだったが、雨だったので水はグレーに見える、普通の川だ。晴れてたらめっちゃきれいだっただろうなぁ。

ちょっとした車通りに出るあたりに鮮魚店があったので入ってみる。そこには所狭しと鮮やかな色の刺身たちが並んでいた。どうしようかと迷うふりをしてみたが、内心はここで今日の昼ごはんが確定していたと思う。

結局、おいしいこと確定なピンク色をした大トロ中トロの刺身をトレー2つ分、まぐろカツ、ごはんをテイクアウトして2400円。安い!あれ、外食にしなかった理由なんだったっけ。

おでん屋さんに教えてもらった時から、今日行くと決めていた。夕食を終えると、クジラ館の元館長がやっているという「スナック洋子」へ向かう。スナック洋子という名前だが、80過ぎのおじさんマスターが1人で切り盛りしているそうだ。おでん屋さんのバイトのお姉さんが、コーヒーがおいしいと言っていた。

店に入ると、マスターはカウンターの奥にある小部屋のようなところにいた。その小部屋には低いテーブルがあり、そのテーブルの上にはライトと、たくさん積み上げられた本がある。

小部屋から出てきたマスターに、コーヒーを注文する。おでん屋さんでクジラの話を聞けると伺ってここに来たことを伝えると、マスターはゆっくりと身の上話をしながらコーヒーを準備し始めた。後ろの棚から既にコーヒーの入ったサイフォンを取り出す。手元からアルコールランプを持ち上げ、テーブルの上でサイフォンのコーヒーを熱する。アルコールランプに熱せられるコーヒーをじっと見つめながら、彼は語る。秋田出身であること、まぐろ船に乗るために水産学校で学んでいたこと、尾道の飲み屋で偶然あった人に連れられ、太地のまちにやってきたこと、定年まで35年クジラ館で勤めあげたこと、そしてこの店は51年続いていること。たびたび謙遜の言葉を口にしてはいるが、その語り口からは自身の生きてきた道への誇りが見え隠れする。

決して多くはない白髪をオールバック風にまとめ、メガネの奥にはクールな眼光を光らせている。しかしその印象ほどに無口ではない。話の合間合間にちょっとした冗談を挟み浮かべる笑みが愛らしい。

サイフォンの中のコーヒーが沸騰すると、コーヒーを煌びやかなカップに注ぐ。カップがいっぱいになると、アルコールランプにさっとふたをして火を消す。出されたコーヒーはやけどしそうなほど熱々で、苦味はそこそこ、そしてなんといってもカカオのような甘い香りが心地よくただよう。人生で口にしたコーヒーの中でも1、2を争うくらいおいしい。

マスターはそのあとも、まぐろ漁船の話、クジラ漁の話、お店に来たお客さんな話など、これまで見て聞いて知った話をとめどなくしてくれた。勝浦は"生まぐろ"を推しているが、静岡などの遠洋漁業を行っているところは何ヶ月も漁に出るためほとんどが"冷凍まぐろ"なのであり、勝浦のものと違いがあるというのは驚きだった。

途中、タイ人のお姉さんがコーヒーを飲みに来た。常連客には必ず「おお、久しぶりやな」から入り、それぞれの近況を聞きつつ会話が弾む。1人1人との会話を聞いていると、客に愛されていることがよく伝わる。

コーヒーを飲み干すと、他にも何か飲みたくなりカクテルのおすすめをもらった。甘めのものをリクエストすると、慣れた手つきでシェイカーに何種類ものリキュールを少しずつ注いでいった(50年やっているなら慣れているのは当たり前か)。チェリーブロッサムだという。マスターは80を超えていて、動作は年相応にゆっくりであったが、シェイカーを振る時のスピードはプロそのもので、とてもかっこよかった。

かれこれ1時間ほど客は僕1人だったので、チェリーブロッサムを飲みながらもずっと話を聞くことができた。しばらくして、常連客らしきおじさんと、これまた常連らしい男女2人が入ると、先ほどまで広かった6人掛けの店はきゅっと狭い感じがして、それでいて賑やかな雰囲気になった。僕はかばんから読みかけの1Q84を取り出すと、マスターに2杯目のコーヒーを注文する隙を伺いながら読みはじめた。

飲み終えたチェリーブロッサムのアルコールを体内に感じ、お店の昭和感ある音楽とますます盛り上がる店内の会話をBGMに 1Q84を読む時間は、なんとも表現しがたい至高の時間だった。カフェインで寝られない可能性を考えても、頼まずにはいられなかった2杯目のコーヒーを飲みながら、ページをめくりつづける。青豆がタマルから拳銃を受け取り、扱い方をくりかえし練習するシーン。今後ここを読み返せば、またこの空間を想起させられるだろうか。

このカカオ香るコーヒーを飲み干したら、ゲストハウスへ帰らなければならない。また一歩日常に近づかなければならないし、もう2度とこの空間には来られないかもしれない。そう思うと寂しくて、いつもに増してちびちびとコーヒーを啜りながら、1Q84の続きを読みすすめた。

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