「面白かった」というフレーズを封印してみるのはどうか

 昨日も日記を書くつもりはあったのだが、寝落ちしてしまった。

 前回の記事で読了したことだけ書いていた村上春樹の『猫を棄てる』については、個別の記事を書きたいと思っている。とくに言いたいことがあるわけではないが、読んだ本について書くというプロセスを、自分なりに構築したいと思っているので、その一環である。
 書くなら早い方がいい。読んでいたときの思考や感覚——言うなればニューロンの発火履歴——が辿れるうちに。風化して色褪せてしまう前に。と思っているのだが、なかなかタイミングがむずかしい。またしても平日が始まってしまっていて、平日には頭脳にも時間にも余裕がなくなりがちだからだ。手元に本を置き、読み返しながら記事を書くというような状況を作ること自体が困難だ。
 もっとも、そのようにコンディションを整えなくても記憶だけを頼りに、睡眠不足の頭で思い出せることだけを使って、適当に感想なり何なりを書いちゃえばいい、とも思うのだけれど、うーん、なぜだろう、本について書こうとすると、どうも気負っちゃうらしい。それはやっぱり本のことが好きだからだろうか。
 とりあえず「面白かった」とは言えるが、それを言うなら最後まで読み切れた本に対してはほぼ百パーセントの確率で「面白かった」と言えるから、それを言ってもあまり意味がない。
 そんなことを考えているうちに思ったのだけれど、逆に「面白かった」というフレーズを封印してみるのはどうか。文章修業的な訓話においても、語彙や言い回しに制約をかけるという手法を聞いたことがある。より一般的に、制約が創造をもたらす、という話もある。試してみるのは手だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?