2024年1月第5週・2月第1週

 さて、やっていくわけだが、もしかしてこの週記も途絶えるかもしれない。ちょっといろいろ忙しくなりそうで。

 今週は日々のログすらまともに取っていない。ログを取っていたのは2日だけで、日記を一度書いた。日記では「笑い男事件」のことを書いたが、ここでは説明を省く。ログには、(以前からそうだが)大したことを書いていなかった。
 ところでログとは何か。たぶん「ライフログ」と呼ばれるものだが、僕がやっていることはそれよりもっと雑なログだと思う。何か行動するたびに逐一書いていたわけではなく、その日の夜にパソコンを開いたタイミングで、そのときに思い出せたことをざっと書いていただけだ。雑な日記というか、そんな感じ。

 どうしてログを取らなくなったのだろう? 新しいことを何もやっていないからだと、最初に思いついたけれど、それを言うなら以前から「新しいこと」などとくにやっていなかったはずだ。そもそも普通の人間が「新しいこと」を次々やっているはずがない。
 では以前には何を書いていたのだろうと思い返すと、たとえば新しく手に入れたツールについて書いたりしていた。あるいは既存のツールの設定を変更したこととか。それからいちおう、どこに出かけただとか、そういうことを。
 たしかにツールについての設定などはひととおり済んで、新しく何か手を加えることはなくなった。だからそれについてのログもなくなった。
 とはいえ出かけたりはしているし、日々生活を送っているわけだから、「何もしてない」ということはない。生きている限り、何かはしている。たとえば今、今週を思い返してみると、ぼんやりYoutubeの動画を見たりしていたことが思い出せる。
 けれどもそういったことをログには残していない。残す気になれない。なぜか。
 その点について考えてみると、おそらくそこに「能動性」が欠けていることが問題なのではないか、と思い至る。ぼんやりYoutubeを見たり、生きるために何かを食べたり、通勤のために移動したりしていることには、僕自身の「意思」があまり関わっていないのかもしれない。とくに意味もなくやっていること、という感じがある。意味がないと感じているから、それを書き残す気になどなれないのではないか。

 しかし人生にはそういう時間がたくさんあるような気もする。一見、無駄なことをしているような時間。現代社会は人々に対して、つねに意識的で意図的であることを要求しているように見えるが、しかしそれは不自然なことではないか。人間は愚かであり続けていいと思う。この言明はどう見ても誤解を生みそうだから、さらに説明が必要だと思われるが、人間の愚かさを擁護するというテーマは奥が深く、そう簡単に説明することができなさそうなので、ここではいったん諦める。

 話を戻そう。能動的にやったことでないとログを取る気になれない可能性がある、という話だった。だからといって、能動的な行動を増やそう、というのも変な話だ。僕はごく普通に生活を送るべきだと思う。
 そうであるなら解決策はひとつ。ログを取る気になれないほどくだらないことを、あえて書いておく。それしかない。だが、それはそれで問題がある。やる気になれないことをやるのはストレスになりそうだ。まあでも仕事でやっているわけではないし、それ自体は誰かに見せるものでもないから、タイピングの練習か指のエクササイズだと思って、何も考えずにやってみるのもいいかもしれない。
 自分の愚にもつかない行動記録から見えてくるものもあるだろうと思う。能動的な行動のログからは、自分の意識の働きしか見えてこないが、ぼんやりなんとなくやっていた行動からは、自分の無意識の働きや、ひいては人間というものの奥深くの機構が見えてくるかもしれない。あるいはそれは「文学」の営みに近づいていく可能性もあると思う。

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