映画「バーニング劇場版」における玉袋筋太郎の存在感



玉袋筋太郎という人がすごく好きで、どれだけ博識であってもクレバーであっても、人としての生々しさが芯にズルリと在り続けるところにたまらないものを感じている。歳を経てなお、紙オムツを着用しながら飲酒に励むという発言等、「芯の意味」でのアニキ感に満ち溢れている。これを信用と呼ばずして何と言おうか。

映画「バーニング劇場版」の主人公が画面に登場するなり、若かりし頃の玉袋氏の面影がよぎった。
青くズル剥けて、どうしようもなく生々しい。瞬時にとにかくこいつの足跡を追いかける映画なのだと解釈してしまい、事実そうだった。そういう風に見てしまったのだから仕方ない。

たぶんこういった若年層の「ズル剥け」は、日本では絶滅の危機に瀕している。
韓国と日本の圧倒的な差はここだ。どれだけBTS(的なもの)が世界を席巻しようと、かつて根本敬らが見抜いたズル剥け感こそが韓国の優位性だと思っている。

(李御寧『「縮み」指向の日本人』という名著に、こうした傾向の違いは強い口調で書かれている。日本への批判的な物言いがちょっときついおかげで内なるナショナリズム濃度のリトマス試験紙としても使える)

ともあれ、そんな韓国版玉袋筋太郎が放り込まれた世界は、あろうことか「村上春樹ワールド」だった。という話だ。かなりの意訳だが、そう思えてしまったから仕方ない。

ズル剥けと村上春樹ほど相性が悪いものはない。使っている言葉が違い過ぎる。
映画でも頻繁に語られる「メタファー」は、村上春樹世界の根幹だ。メタファーで世界を編み、そんなことを繰り返しているうちにメタファーが異常な存在感を示しはじめ、あげく「実際はこういう意味だったんです」と知らされても、何だかポカンとしてしまう。答えを覆い隠す(もしくは最初からない)言い回しの方がよほど饒舌なのだ。

偏見に満ちているのはわかっているが、映画化された全ての村上春樹作品は、この「メタファー感」がやたらと色濃い気がする。映像という分野がそういう性質を多分に孕んでいるからだろうけど。

それに対し、韓国映画界最大のズル剥け巨匠(信頼がおけるという意味)であるイ・チャンドン監督は「メタファー」という単語を、もう直接言葉にしてしまい、更にはこれでもかという頻度で映画内に散りばめる。ガンガン言っちゃってるのだ。迷路の様に暗喩に満ちた世界を作り上げておきながら。

そんな中に放り込まれた韓国版玉袋筋太郎こと主人公の行動原理はシンプルで、何もかもが直接的だ。メタファーが覆い尽くす世界で「愛しています」という直球を放り込み、整形前の彼女には醜いと言い放ち、ビニールハウスと言われればビニールハウスを探しまわる。言い回しが全く通じない。本当に小説家志望なのか? と思えるくらいの生々しさを放っている。

つまりとにかく、主人公は「シレッとしていない」のだった。
世界の胸ぐらをつかみ、「だからよ! お前らはよ! な、に、が! 言いてえんだよ!」と詰め寄ることが出来ればどれだけ楽だろう。しかし、見えない春樹界にそれは通用しないことも主人公は充分わかっている。

だから、直接的な手段に至らないと気がすまないのだ。

あの野郎が本当は何をしたのか、肌を重ねたあいつは自主的に消えたのか消されたのか、そういったミステリー的な諸問題はそれほど重要ではなく、それらの「見えない世界」に対して、ズル剥けの主人公が最終的にどういう行動に至るのかという話だ。

もう少しあけすけに言えば、「血も涙も垢も体液も臭いもあるどうしようもない僕ら」が、シレッとした世界に対して、「現実だよこの野郎」という思いの丈を、刃物のような無骨さで叩きつける話だ。

つまり村上春樹に玉袋筋太郎を入れるだけであら不思議。イ・チャンドンになりました。という傑作だった。ほんと面白かった。

映画内で最も美しいシーンである、ハイになった彼女が踊る場面では、夕暮れが闇夜に近づくにつれて彼女の「整形した顔」は見えなくなり、動きだけが強調される。「な? 顔じゃねえだろ?」というイ・チャンドンの強い意志が感じられて大好きな場面だ。

…あと、農作業従事者として、ビニールハウスを燃やすとかマジでふざけんな。
ボロボロのビニールハウスを変な喩えに使うんじゃねえ。自慢じゃねえがうちのビニールハウスはボロボロだよ。現役なめんな。

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