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BBTクローン再生計画(22)あまりにも「お行儀」が良くなりすぎるのも考えもんです

昭和期は、今と比べるとかなり「野蛮」だった時代だとは思います。
その頃の価値観を持ち続けているオッサンとかが繊細な平成生まれ世代と不要な接触をしてしまってトラブルになる、というような不幸なケースも散見されます。

とはいえ、あまりにもセンシティブすぎる、つまり「お行儀が良すぎる」というのもまた、いかがなものかと思います。
「世間の全員が同価値観の持ち主」とかいうのならばいいんですが、そんなSFチックなことなんかあるはずがなく、「色んな価値観の人間が混然一体となって出来ている」のがつまり世の中なわけです。
当然ながらお行儀の「良い」人もいれば「あまりよろしくない」人もいるわけですが、それでいいと私は思います。

以前に付き合いのあった若い子は言葉遣いからして丁寧で、友人付き合いをしていても「敬語使用」が前提でした。
いや、「友人間で敬語を使う」ということ自体はいいんです。
双方とも同タイプであるのならば。
ただし私はガサツなタイプなんで言葉遣いは基本フランクで、敬語会話は「意識し続けないとできない」のです。
たまにポロッと地が出てしまうと露骨に嫌な顔をされたりして、それがしんどくて、ついに私は付き合いをやめてしまったのでした。

私が「お行儀良すぎること」に危機感を抱くのは、戦前・戦中を連想してしまうからです。
当時もやはり「お行儀の良い人たち」が周囲に対して「正しさ」を求めました。
まぁ昭和前期なんで言葉遣いは「キサマ!」とか荒っぽいですが、言ってることはその当時のポリコレ(ポリティカル。コレクトネス=政治的な正しさ)です。
「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」なんかが顕著な例ですが、世の中が「ひとつの正義」に収れんされていくような状況が健全だとは全然思えません。

戦後の昭和人は、現代のセンシティブな若者たちから見れば「どうしようもなくガサツで癇に障る」かもしれませんが、「偏狭なポリコレに支配されていない」という点では今より素敵な気が私にはします。
「他人の金メダルを了承もなくかじる」みたいなガサツさは確かに嫌ですけど、「過剰な気遣いを互いに要求し合う」といった神経衰弱になりそうな「お行儀の良さ」も同じくらい苦手です。

ポリコレ自体は悪いものではないですが、「世間の全員がそれに従わないといけない」みたいな状況になったら、それはもうファシズム(全体主義)です。
丁寧な言葉遣いで全体主義を強要して来るニュータイプ・ファシストみたいなのが増えてこないよう、みんなで「ちょっとずつお行儀悪く」してみませんか?

画題「ニュータイプ・ファシストに真っ先に目をつけられそうな私」

お行儀


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