無題

金曜の夜に月曜からの借り物の日々が坂を下るように終わる。ほとんどが怠惰の積み重ねで、部屋に戻り、一人になると、俺は時々「なにをやっているんだ」と自分を殴りたくなる。先ずテレビ、次に有線イヤホンを耳に突っ込む。暗闇のなかにフットライトの小さい光が浮かぶ。ダウンは脱がない。窓を開け「外」の空気を持ち込み、ゆっくりと自分の部屋の空気と中和させていく。深く呼吸をして馴染ませていく。切り替えていく。肺から。身体を。そして俺が観るテレビはいつも、人の営みの残骸だ…

おいしい料理屋。変質者のようなSNSの人気者。知られざるパワースポット。ささやかな幸せは、儚い華やぎは、きまって昼に現れて、夜が更けるとともに悲しいニュースに散り散りに流されてしまう。殺人。傷害。悲しいニュースの大半は人間同士のトラブルにある。人間が自分と同じ血の流れる人間をキズつける。そんなニュースの頻度が最近多いと感じる。安易な俺は、俺自身のしょぼい日常とニュースを繋げてしまう。本当は人間は一人ぼっちで、誰ともわかりあえやしないのではないか。

言葉は古今東西の神がそうであるように、時に僕らを玩び、時に僕らを引き裂く。言葉は絶対でも完全でもない。だから僕らは言葉を使っては誤解を生み、互いに傷つけあい、憎しみあったりもする。バラバラな僕らは独自の磁場を持った球みたいなもので、ちっぽけなエリアのなかでそれぞれがくっつき、反発し、群れをなし、分裂し、ひとつの世界を形成している。言葉を使って。そして悲しいけれどそれぞれすべての人間がうまく関係を作れないのも事実だ。僕にだって苦手な人や嫌いな人はいるし、逆に、僕を嫌いな人や憎んでいる人もいるだろう。もしかしたら僕に殺意を抱いている人もいるかもしれない。

ただ、それぞれが分かり合えなくても、理解できなくても、うまくいかなくても、僕らを包んでいる世界を好きになることはできる。それから本気で、ハードコアに愛し合い、憎み合えばいい。分かり合えなくたってちっとも構わない。僕らを囲んでいる、大きく、緩やかな弧を信じられれば、世界を好きになれれば、誰かを傷つけてしまいそうなときにブレーキが掛かると思うのだ。

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