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One Moment [短編]

書物にとって“目”とは何か? 


 男は満ち足りていたから寡黙だった、と云うのはぴったりくる。あり得るな。満ち足りた男性の静けさには独特なものがある。黙ってるから不機嫌なのかと思って、そっと覗き込むと目元がいいようもなく優しかったりする。でも世話女房というのはどうだろう。古臭い言い方。昭和に書かれた小説だから、仕方ないけど、それにしても世話女房なんて今の若い子は解るかしら。私はそのページに指を挟んだまま思案した。世話女房、世話女房、着物姿に白い割烹着を着てちょこまか歩く女。に、例えられる男。その情景が醸し出すおかしみだけは何となく感じる、何となくだけど。

 というところまで読むと、浮上を知らせるアラームが鳴った。
「本は持って行けないからね」とママは言う。本は贅沢品で、だから小説を読んでる人の小説というのは目も眩むほど贅沢、ということになる。貴族的だ。この本が書かれた時代にも貴族はいたのだろうか。私も貴族になりたい。彼等は12歳になると翼をもらえるから。私達みたいなゴミ拾いは、12歳になっても20歳になっても翼なんて持てない。
 「風向きが変わる。汚染濃度が北部の方が高くなってる、帰りは道を変えよう」パパがレーダーとにらめっこしながら言う。私は立ち上がって廃屋を後にした。
 お兄ちゃんとお姉ちゃんが荷台に売れそうなものを積み上げる。荷台の上のパパは「こりゃ使えないな」とか言って時折ゴミを遠くへ放った。背伸びするたびにお兄ちゃんの義足が軋んで変な音をたてる。汚染区域に長くいすぎてダメになってしまったのだ、子どもの時に。だからお兄ちゃんは兵隊になれなかった。でもパパもママもそれで良いと云う。ゴミ拾いでも家族みんなが一緒に暮らせる方がいい。
 「これもダメだ」
パパが荷台から捨てたのは私が拾ってきたもので赤ちゃんの顔がプリントされた缶かんだった。可愛かったのに。私はまだ何が要るもので何が要らないものからわからない。お兄ちゃんとお姉ちゃんはだから私を赤ちゃん扱いする。
   本を読みなさい、と先生は言う。先生は私達の街でいちばんのお爺さんでとても物知りだけど機械じゃない。私も物知りになりたくて、サルベージの合間に本を読んでいる。いつか私もお兄ちゃんに軋まない義足を買ってあげたい。パパには低空圧分散式ノズルを、ママには窓のある家(もちろん私も住む)を、お姉ちゃんは欲しいものがありすぎて何がいいか分からない。私が物知りになって拾い物がうまくなってお金が貯まったら、本を売るお店を開くつもり。お店の名前は決めてある、"ふたつの世界の書店"。これも小説のタイトルからとった。

 「残念ながらこれは我々が探している本ではないよ」
そう云ってデボラに本を投げると、彼は口でキャッチした。焚き火の周囲だけ明るく、デボラの目は炎に濡れている。鼻先で本をめくり、咥えたり放ったりひとしきり遊ぶと、ハッハと息を弾ませ私の所に戻ってきた。犬は賢い。賢くて従順で人生の相棒にするにはこの上ない存在だ。特にデボラの好奇心と知性が同居した黒く潤んだ瞳を覗くと、こちらの話していることはすっかり分かっているような気がしてくる。
「汚染された世界に住むゴミ拾いの女の子がね、滅びた種族の本を読む話だったけど、違ったよ。“探求”“旧世界”“聖書”って、そんな単語だけじゃ釣れてこないよな。ああ、我々のルートに繋がる物語ではなかったよ。でも女の子には好感を持ったよ、家族思いで好奇心が強くて。ただのお話の中の人なのになぜかな、幸せになって欲しいと思ってしまうんだよ」
それは私が寂しいからかな。最後の言葉は心の中でだけ云ったけど、デボラには通じていた気がする。私は物語を書いたことはないけど、それはデボラがいるからだと思う。経験を分かち合い、胸のうちにあるものをもの云わず受け止めてくれる。物語を書く人というのは、自分の経験や考えや感じたこと想像したことを受け止める器が欲しいんじゃないかな。人間は聞く耳よりも喋る口の方が偉いと思ってる節があるからね。何かものを云っても、必ずしも受け止めてくれるわけじゃないのだし。犬と文字ではまるで違うけど、喋る口を塞いでまで言葉を被せてこないのはありがたいことだ。
「何にしろ我々は、ひとりでは抱えられないものがあるから。ルートに繋がる物語を探すのもそのひとつだし、なあデボラ」
相棒は小さくくぅんと鳴

 と、その時脛に痛みが響いて私は小さく呻いてしまった。本から顔を上げると、中年の男性が通り過ぎるのとキャリーバックがふらふら蛇行しながらついて行くのが見えた。男の意識がまるでキャリーバックにいっていないのがその扱いでわかる。
    私は舌打ちした。ぶつけておいて気がつきもしない。待合室はそんなに混んではいないのに、少し気をつければいいことなのに。私をジンジンする痛みと苛立ちの中に残して、男はホームの端の方をのろのろ進んでいた。
    満天の星空の下、犬連れの旅路の夢は覚めてしまった。現実の痛みに絵空事は勝てない。新幹線の到着を告げるアナウンスに、待合室の数人が立ち上がる。私は脚を出来るだけ引いてもう一度潜る。夜気の冷たさと満天の星やデボラの黒い瞳の中に。そのとき私の全ては目へと注がれる。その後、乗るべき列車が来ることも、会うべき人がいることも、こなすべき仕事があることも、あげるべき成果があることも、そして疲れた体に栄養と休息が必要なことも置き去って向こう側へ行く。置き去ったはずのものが、私の視線の最果てで待ち構えていたとしても。
 
 知覚を言語変換した。読むという行為。それもまた楽しからずや。ロゴスは果てた。一切の感覚は感覚として通達される。共感とはすなわち”共”感であり、我々は一個体の視覚聴覚嗅覚触覚味覚全てを、他者と共有することを可能とした。未来。と呼ばれる位相の中では、過去はもはや過去でなく“共”感できるある時点での出来事である。
    さらに、視覚や聴覚より上位の知覚を己の身体に搭載することが当世の流行りとなって久しい。
  だが私個人は、それらのウンヴェルトの拡張には興味がない。どちらかといえば、言語を介した幼くぎこちないやりとりの方が慎ましく、好ましい。懐古趣味と一蹴されようが、個が個であることを欲しながら、個が全体へ回帰しようとするこの小説なるものが私のもっぱらの友である。
   動物、昆虫のみならず植物の、粘菌のウンヴェルトを欲しがる者の気がしれない。気がしれない、という言い方自体、当世には存在しない。なぜなら他者と自己の境はもうない。私の手の中にも誰のもとにもだ。全て管理され預けられ明け渡されたのは、人類にとって大きな決断だった。恒久的平和と進化のために。私がこのように、他者の情報を表出言語として嗜好するにも、容易くない手続きが必要なのだ。
    未熟な言語なる伝達手段を文字という虫程の役にも立たない固定型の記号に落とし込む不自由を無知の愚行というのか、無垢の戯れというのか。そこに私が感じる郷愁はたたごとではない。いずれにしても、小説を読む人の知覚に触れるのは、また楽しからずや。

 「……分からない」
いや元々わけのわからない奴ではあったけど、このメモなのか小説なのかよく分からないものだけ残されても、私は困る。
 慌てて 帰宅した部屋のテーブルの上に、合鍵が置かれていた。荷物は残っていたが大きめのトートバッグが見当たらないので、必要なものだけ詰め込んで出ていったのだろう。
  知り合いに電話をかけまくるとか、カードやパスポートが無くなってないか確かめるとか、深呼吸して気持ちの整理に入るとかそういう初動があって然るべきなのに、何なのだこの長いメールは。
『楽しかったよありがとう』という文面も意味不明なら、『美鈴のことを思って書きました』という添付はさらに謎すぎる。
   分からないよ。
   これが何なのか分からない。
   何のつもりで何を書いたか分からない。
   あんたが何で出て行ったのかも分からない。
スマホの画面から目が離せない。ここに何か答えがあるの?それともギャグのつもり?私を煙にまこうとしてる?
    私はもう一度彼氏が書き送ったものに目を落とした。
    





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