春に満たないもの

   職場に壁二面が鏡張りで、南東向きに大きく窓がとられた部屋がある。ダンスとかヨガとか太極拳などの使用に貸し出すスタジオなのだが、大きな窓のおかげで冬でも太陽さえ出ていればかなり暖かい。
   そのスタジオの窓辺の陽だまりに蝶が死んでいた。ベニシジミだと思う。出入り口は遠いし、スタジオの窓は開閉できない。どこから迷いこんだのか不思議だ。2日前にはいなかった。三月も下旬になって、暖かい日と冬に戻ったような日が交互に訪れる。蝶は冬眠から覚めて、少し早く目覚めてしまった迂闊さを二枚の薄い羽に乗せて、ひらひら飛んできたのだろうか。いつでも春の盛りほどに暖かいこのガラス張りの部屋へ。
   もう少し待っていれば、本物の春の中を飛べたのに。二枚の羽をかさね合わせ、カサカサに乾いて横たわる蝶の向こうに、芽吹いた雑草でいっぱいの丘陵とかうららかな空とかが見えて、この蝶が春の一部になれなかったことを思った。
  思ったついでに、まだ桜(染井吉野)の咲くには早いこの時、冬を越したが春には満たない、春未満の事象について思い巡らせてみた。

 例えば、長靴の白く乾いた泥。ーーー雪がとけたぬかるみを歩いて、さすがにもう雪は降らないと思いつつそのままの長靴。玄関土間の隅で、すっかり乾いた泥が冬のような春のようなどっちつかずだ。

  例えば、すごく単純に影の角度。ーーー近隣の五階建てビルの最上階から屋上に登るための、壁に直接埋められたはしご段。くっきりと落ちる影が期せずして、現代アート風で、昼休み、決まった時間にみている。角度が心なしか変わった。

 スタジオにやってくる妙齢の女性たちの腰回り。ーーー冬のあいだに上乗せした脂を、削ぐにはまだ早いと語ってるような後ろ姿が春未満。

   など、など、などと考えてみる。
が、どれも蝶の死骸とは決定的に違う。
そうか、蝶は春に属するものだ。冬の完全な終息を待たずに死んだ春だから、心に留まったのだ。
   春はいつでも待ち遠しい季節なのだけど、あまりに勢いづいた植物たちの勃興にけおされる。週末、東京に来たら桜が咲いていた。僕の街でもすぐに開花が始まるのだろう。  


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