中道の問題点

中道(あるいは中庸)の問題点というのは、そこにある事が難しいという事をちゃんと理解していない人間に限ってこの言葉を乱用する事にあると今は思う。中道(1)のあるべき姿というのは「揺れている」という事と「定まっている」という事が時間の流れとともに変容し、それでいて一定の流れを保つような、言い換えれば「それであってそれでない」という空間を時間の経過とともに変容できる姿と言っても良い。我々は過激な思想やそれに類推する事象を目にするたびに「中庸でいよう」と感化される。しかし、それはそれで思考にとって重要なものではあるが、「これを具体化しよう」「思想として形態として規則化しよう」という流れは全くもって間違っている。何故かというと中道を具体化させたり規則化させたりすることは、中道が本来持つ流れや変容を止めてしまう事だからだ。例えば日本の公明党のスローガンである「人道主義=中道主義」なるものはまさにこの典型であろう。中道である事が人道的であるというのはあまりにも断言しすぎている。時代によって人道的な事がすべて(その時代の)中道にかなうという道理はないからだ。時代を遡れば人道的な事もそれで変容しているし、それを叶え得ない事象も数多くある。後半に関しては、中道という概念的なものを現実事象に照らして考えること自体に疑問があるかもしれないが、前半に関しては否定の余地はないだろう。奴隷を所有する事が人道にかなう時代もあったのだ。だがそれは変容された。そうすれば(人道的な)中道もまた変わる必要がある。未来はどうだろう?「人道主義=中道主義」足り得ない公式が導かれるかもしれない。しかし中道は動かなければならない。それが中道というものだからだ。このように中道というものを考えてみると、それが思想の軸足り得ない事は想定できるだろう。中道とは捉え得ないものなのだ。中道であろうと心得るなら、そのものはもはや何の道理も思想的基軸も持ってはならない。もっと言えば身体にさえ捉えられてはならないと言えるだろう。もちろんこれらがすべてあいまいな形で成されなければ中道ではないという事は言うまでもない。中道とはこのような状態に自己を置くことと同義なのだ。思考する際に中道であろうとすることは褒められた事である。しかし、自己がその人生において基軸とすべきことは(少なくとも中道よりは)もっと過激であるべきだ。

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