「とまらない悲しみと悲しみと悲しみと悲しみ」本編

 彼女ができた。
 彼女は悲しいことが好きだった。
 笑うより思いきり泣くことのほうがストレス解消効果がある、と何かで聞いたことがある。それを知ってか知らずかは知らないけど、彼女は悲しい涙を流すのが大好きだった。
 付き合って初めてのデートは映画。事故で死んだ飼い主の帰りをずっと待ち続けた子犬(ミニチュアダックス)が、主人を見つけようとあちこち旅して最終的に死んじゃう話だった。彼女はわんわん泣いた。湧き水みたいだった。泣きながら、口元は少し微笑んでいた。
 次のデートも映画だった。戦争で死んだ夫の帰りをずっと待ち続けた妻(ミニチュアダックスみたいな顔の女優さん)が、主人を見つけようとあちこち旅して最終的に死んじゃう話だった。ドッペルゲンガーばりに似た内容だった。それでも彼女はぶわんぶわん泣いた。ダムの放水みたいだった。泣きながら、ふふ、と時たま静かに笑っていた。
 次のデートは動物園だった。僕らは目の前で一匹の小猿が死ぬのを見た。飼育委員の話によれば、この小猿は母親と生き別れになり、旅をして探し回っていたところこの動物園で保護され、でも保護の甲斐なく衰弱死してしまったらしい。これはきっと映画になると僕は確信した。彼女はぶるわんぶるわんと水の神様みたいに泣くんだろう、と思っていたけどそうでもなく、ただ静かに、ぽたぽた涙をこぼすだけだった。
 でも、その涙が一番、彼女にとって快感だったらしい。
 ある日の放課後、二人きりの教室で、彼女は僕に言った。
「死んだ猿を超える悲しさが欲しいの」
 今日のお昼何食べようか迷ってるの、ぐらいの口ぶりだった。
七月ななつきくん(僕の名前だ)のこと、私、大好きだから……七月くんが悲しんでるとこ見たら、きっと今までで一番泣いちゃうと思うの」
 そんな恥ずかしいことを臆面もなく言う彼女はもうめちゃくちゃに可愛くて、僕はどうしてもにやにやしてしまった。
「七月くんは、何されたら、何が起きたら、一番悲しい?」
「え、うーん……」
 結構、色々ある気がする。……たとえば。

「たとえば、君が別れようとか言い出したら、悲しいかな、うん」
 二人きりの教室だから言える、ちょっと恥ずかしいせりふだった。
「じゃあ別れよう」
 早かった。僕の「悲しいかな、うん」の「しいかな」辺りに被り気味で、彼女は別れを切り出した。もちろん僕は言い返す。
「え、いや、嫌だよそんな。これはあくまでたとえばの話で」
「別れよ」
「いや、だってさっき、僕のこと大好きだって」
「ごめんね」
 彼女はさっさと教室から出て行った。一度も振り返らなかった。ぽつん、と取り残された僕。窓から濃い夕日が差し込む。
 そうしてそれから、次の日もその次の日も、僕が何を言っても彼女はもう耳を貸さなかった。本当に、別れたことになってしまったらしかった。こうして僕は一人になった。一人になった僕をちらちら盗み見て、時たま彼女はうっすら笑みを浮かべた。幸せそうな暗い笑顔だった。

(話はここで終わりです。ですが、この悲しい結末に納得がいかない場合、あなたは続きを読んでもかまいません)
 
 ……というように。
「別れることが悲しい」なんて言うときっと彼女はそれを実行する。一瞬でそう思った僕は、出かかった言葉を飲み込んだ。そして、
「……家族がバラバラになることが、一番悲しいかな」
 と寂しげに呟いてみた。別に僕の家庭は何の問題もなく非常に円満なのだけど、こういう家族大事にしてますみたいなさりげないアピールってきっと好感度アップだな、という下心あっての発言だった。
「……そっか……あ、なんか、変なこと訊いて、ごめんね」
 彼女は申し訳なさそうに俯いた。
「あ、ううん、気にしないで」さりげない笑顔を見せる。
「うん……でも七月くん、家族を大切に思ってるんだね。素敵だね」
 ふわ、と彼女は笑った。好感度の上昇を肌で感じ、僕も笑った。
 で、その夜。家で。
 一階から悲鳴が聞こえた。慌てて、でもおそるおそる、自分の部屋を出て階段を下りる。
 リビングに入ると血の海だった。肉片の混じるその海の真ん中に、数時間前と同じ、制服姿の彼女が立っていた。包丁を握り締めた右手を僕に向け小さく振り、ふわ、と笑う。
「悲しい? 七月くん?」
 そう。
 彼女は僕の家族を、バラバラにしてしまった。文字通りの意味で。

(話はここで終わりです。ですが、この悲しい結末に納得がいかない場合、あなたは続きを読んでもかまいません)

 ……家族の話っていうのも変かな、と思った。ので、出かけた言葉を飲み込んだ。
 やっぱりここは彼女に関係のあることを言うべきじゃないだろうか。いや、べきというか、実際今の僕にとっては彼女に何かあることが一番悲しい。だから思うままに、
「もし君の笑顔が見られなくなったりしたら、それが一番、悲しいと思う」
 そう言った。言った後でちょっと照れくさくなり、僕は笑った。
 彼女は少し黙って、考えるような顔をしながら、鞄を開いてシャーペンを一本取り出した。
 そして勢いをつけて、それを自分のほっぺたに突き刺した。
「えあっ」
 彼女が小さくそんな音を発する間に、右のほっぺたから入ったペン先はあっさり左側から顔を出した。真ん中で串刺しになり8の字みたいになった彼女の口から、ぼたりと一滴、血が落ちる。彼女はシャーペンの尻を握り、パンチでもするみたいに前方へぐいっと押し引いた。ぶちぶち嫌な音を立てて口の端が広がり、彼女のほっぺたはほとんどなくなった。支えを失い、ぶらんと垂れ下がる顎。彼女はそれを両手で掴み、レバーでも引くみたいに下方向へ力いっぱい引っ張った。――ばきっ。
 こうして彼女は顔の下半分を壊し、二度と笑顔を作れなくなった。

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「待って、今のなし! 笑顔なんて見られなくても全然悲しくない!」
 シャーペンを鞄から取り出した彼女に、僕は大声でストップをかけた。
 彼女はきょとんとした顔で僕を見た。じゃあ何なら悲しいの? そう尋ねるような目。
「えっと……笑顔だけじゃなくて、君自身を見ることが出来なくなったら、僕は悲」ずぶ。
 何かが潰れる音と共に、僕の視界の右半分は真っ暗になった。
 じんわり広がる熱と鋭い痛み。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。

(この悲しい結末に納得がいかない場合、あなたは続きを読んでもかまいません)

「違う! なし! 見えなくなってもまったく悲しくない! それより、えっと……君の声が聞こえな」ぶす。
 左耳の奥のほうから音がして、すぐ何も聞こえなくなった。
 みるみる広がる熱と鈍い痛み。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。

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「ああ違う! だめ! なし! 見えなかろうが聞こえなかろうが全然悲しくない! そうだ、君ともしこうして喋ることができ」ごしゅ。
 目線を下にやる。シャーペンの下半分が、顎の下から覗いていた。
 どんより広がる熱と痛みと悔しさ。熱い。痛い。悔しい。ああ。もう。

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「なーし! もう全部なーし! というか一回シャーペン置こう! シャーペンはよくない!」
 強引に彼女の手からシャーペンを奪い取り、窓を開け、空めがけて遠く遠く放り投げた。
 それから、ゆっくり呼吸を整え、彼女と向き合う。
 そして考える。
 あれだ。「僕」とか「君」の話をするからよくない結末になるんだ。
 つまりもっと、広い範囲での話をすればいい。
「僕が一番悲しいのは、たくさんの人が命を落とし、悲しみ、絶望する、この世界の存在そのものだよ」
 彼女は、ぽかんとした表情で僕を見た。そして、無言で教室から飛び出した。あんまり的外れな答えをしたせいで嫌われたのかも知れない。でも、それならそれでいい。結局これが一番、良い選択のはずだ。ふう、と自然にため息が漏れた。
 翌日から、彼女は学校へ現れなくなった。
 代わりに、僕の町に連続殺人鬼が現れるようになった。その独特の殺害方法から「シャーペンキラー」と呼ばれ、恐れられた。たくさんの人が命を落とし、悲しみ、絶望した。
 僕は頭を抱えた。

(この悲しい結末に納得がいかない場合、あなたは続きを読んでもかまいません)

 とりあえずまず彼女の鞄を開け、ベキッとシャーペンをへし折り、思いっきり窓からぶん投げた。
「あのね、先に言っておくけど僕はね、血とか見ても全然悲しくならないんだよ。いや、もう正直に言うけど、痛いこととか血生ぐさいのとか大好きなんだ。だいっっっ好きなんだ。だから、流血沙汰になるようなことはやらないほうがいいよ、断固として」
「……どういう意味?」
「……まあ、いいや。それで、えっと、そうだな、僕が一番悲しいのは……」
 一度、深呼吸する。思考をまっさらにする。目を瞑る。そして、ようやく。
 ようやく、ひらめいた。
 逆を言えばいいんだ。
「別れるのが悲しい」と言うと彼女は僕と別れる。「誰かが死ぬのが悲しい」と言うと彼女は誰かを殺す。ということは、つまり、一般的な悲しい概念にあるものと、逆のことを言えばいい。嬉しいこと、そうであって欲しいことを、言えばいい。
 かっと目を見開き、僕は口を開いた。
「君が、僕の前で、こうやって生きてることが一番、悲しい」
 解けた。そう確信した。口元が自然と緩み、笑顔を抑えることが出来なかった。
 彼女は、僕をじっと見つめたまま、小さく口を開いた。
「……それ、死んで欲しいってこと……?」
「そうだよ」
 堂々と返した。返してから、思った。
 なんか違う気がする。そういうことじゃないような。
「――――ひどい」
 あ間違えた、と思う間もなく彼女は開けっ放しの窓へと走り、その四角い枠を飛び越えて、空に向かって跳んだ。
「……あ」
 夕闇の中、落下していく彼女の体。数秒後。
 ぐしゃ。
 嫌な音が、はっきり耳に届いた。
 最悪だった。
 僕は、この最悪な最悪な最悪な結末を受け入れるしかなく、もう受け入れる以外には何もなく、ただ窓の外を見ながら、ぼんやり立ち尽くした。

(話はここで終わりです。もう続きはありません。あなたはどこかで、この話を読むのをやめるべきでした。あなたが読むのをやめていれば、この悲しい結末は避けられたのです。なぜ? なぜあなたは、読むのをやめなかったのですか?)

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