「サーカスが来て頬が腫れた話」本編

「私、サーカスに売られちゃったんだ」
 朝のホームルーム前。隣の席の佐藤さんがにこにこしながらそんなことを言うので僕は、
「へえ」
 と軽く返した。我ながらずいぶん適当な相槌だと思ったけど、佐藤さんはなぜか嬉しそうに笑っていた。笑う白い歯や頬に窓から日が射して余計嬉しげに見えた。
七月ななつきくんって彼女いるの?」
 ぶしつけな質問に戸惑いながらも、いないのでここは見栄を張らずに、
「いないよ」と答える。
「じゃあ一枚だけあげるチケット。今週の日曜五時からだから」
 佐藤さんは薄汚れた紙切れを一枚僕に差し出した。ミラクル小林大サーカス団。なんだかぱっとしない名前だ。見に行くかどうかまだわからないけど、貰っておいて損なものでもないのでありがたく頂戴した。
「佐藤さんは何をやるの?」
「空中ブランコだよ」
 入団したての子にずいぶん無茶させるサーカスだ。人手不足なのか、それとも彼女に何かを見出したのか。
「でも、なんでサーカスに?」
 口に出してからまずいと思ったが遅い。佐藤さんの顔がちょっと曇った。
「うーん。理由は色々あるんだけど、お金に困ってたからね、うち」
「そか」
「お母さんが『優子ゆうこ、サーカスか無理心中どっちがいい?』なんて言うもんだから、そりゃあサーカス選ぶでしょ普通誰でも」
 あっけらかんと佐藤さんは言った。確かにそれなら僕もサーカスを選ぶ。というか選択肢の幅あまりに狭くないか佐藤さんのお母さん。もうちょっとバリエーションあってもいいのでは。
「あ、でさ七月くん」
「なに?」
「今日の放課後暇だったら、練習に付き合ってくれないかな」
「練習って空中ブランコの?」
「うんそう」
「いいけどどこで?」
「公園すぐそこの。じゃあ約束ね」
 真っ白い歯を見せながら佐藤さんは笑う。果たして公園なんかで空中ブランコの練習が出来るのかと思ったけど、おそらく何か練習器具が組んであるんだろう。でも僕は何をどう手伝えばいいのか。僕も乗らなきゃいけないなんてことになったらどうするか。
 安請け合った自分にちょっと後悔したけれど、チャイムが鳴りほどなくしてホームルームが始まったので話を白紙に戻せずじまいだった。担任が喋っている間、僕は窓の外を見つつ、二階でも結構高いのにくうブラなんてと不安を膨らませた。

 放課後、佐藤さんと一緒に公園へ向かった。到着したそこは、どうしようもなくどうしようもない公園で、僕が今日授業中ノートの片隅に描いた空ブラ特訓マシーンらしきものはどこにもなかった。
「ここで、どうやって」
 と僕が質問しているその最中、佐藤さんは鞄をぽいっと投げ捨て、ブランコ(空中じゃないごく普通な)に向かって走り出した。まさかと思ったが、とりあえず僕も後を追ってブランコのそばへ向かった。そびえるそれは夕日が当たって厳かだった。
「じゃあ練習するから見ててね」
 軽くそう言い、佐藤さんはブランコの椅子へ腰掛け、ゆっくり前後させ始めた。それを見ながら僕は考えた。なるほど僕が知らないだけで、サーカス業界の人は普通のブランコをマシーンとして使用する術を知っているんだな。しばらく待てば目の前で驚くべき漕ぎテク(猛スピードでぶんぶん回り始めたり)が繰り広げられるに違いない。
 僕はそれからまじまじ見続けたが、いつまでたっても佐藤さんはきこきこ緩やかに漕ぐだけだった。下手したら幼児の方が激しく漕ぐだろう。しまいには、
「七月くんもやろうよ」
 などと言い出した。僕はおそるおそる佐藤さんの隣のブラ椅子に座り、ゆっくり漕いだ。意外と楽しかった。
「意外と楽しいね」
「ね」
 きこきこ二時間くらい漕いだ辺りで佐藤さんは椅子からすたっと立ち上がった。ので、僕も立ち上がった。とっくに日は沈んでいた。
「じゃあまた明日もよろしくね」
 にこにこしながら佐藤さんが言う。こんな簡単なことで彼女の役に立つというのに誰が断るだろう。僕はこくりと頷いた。えへへ、と佐藤さんが笑った。風がすかっと吹き、揺れるブランコをもうちょい揺らした。

 それから来る日も来る日も、僕と佐藤さんは放課後二人でブランコを漕いだ。漕いでる間、佐藤さんはあんまり喋らなかった。ので、僕もあんまり喋らなかった。ちらっと横目で見る佐藤さんはいつも遠くを見ていた。そうすることが何か空中ブランコ実践に役立つのかも知れないと思った。ただ寂しいだけかも知れないとも思った。

 かくして日曜がやってきた。僕は緊張していた。なぜなら結局、佐藤さんは普通にきこきこ漕ぐ以外のブランキングをしなかったからだ。彼女のそれは立ち漕ぎさえしないというゴールド免許っぷりだった。みっちり毎日漕ぎまくったとは言え、果たして彼女は本番を乗り切れるんだろうか。チケットを握り締め、僕は会場へ向かった。
 道すがら、僕はひとつの可能性を考えていた。実はサーカスなんてなくて、佐藤さんはただ複雑な家庭に育った薄幸の少女で、苦々しい現実から少し逃避したくて直帰せず寄り道したかっただけだと。で、僕のことがちょい好きで一緒にいて欲しくて妙な嘘をついて僕の気を引いたと。二人ブランコを漕ぐその時間だけが彼女の唯一の幸せだったと。どうだ。これなら僕の手元にあるチケットがどう見ても大学ノートの切れ端にサインペンで書いたハンドメイド的なものである理由もつくじゃないか。
 自分の名推理に酔いしれながら会場へたどり着くと、果たしてそこにはこぢんまりとしたテントが建っていた。びっくりした。ほっぺたをつねっても目が覚めなかったので仕方なくチケットを受付の人へ渡し中へ入った。中にはそこそこ人がいてまたびっくりした。びっくりしてたら開演した。
 内容はと言うと、これがなかなかどうして普通に面白く、ライオン使いにピエロの玉乗り、子馬の曲芸にナイフ投げと、テントのこぢんまり加減からは想像もつかない豊富なラインナップで僕はひどく童心に帰ってしまった。
「ラストはお待ちかね、空中ブランコです」
 団長とおぼしき紳士のものものしいアナウンスで我に返った。そうだ、佐藤さんだ。佐藤さんを見に来たんだ僕は。ていうか大トリなんだ、すごいな入団して間もないというのに。
 テント内にそびえる高いポールの上方をライトがズバッと照らす。そこにいるのは、大トリにふさわしい派手な服を纏った佐藤さん、といきたいところだったが現実は学校の体操着つまりもっさりした赤ジャージを着た佐藤さんだった。せっかくだからもさもさではなくきらきらの衣装用意して貰えばよかったのにと思いながらもほんとに佐藤さんが出てて少々驚いた。
「それではどなたかに彼女のアシスタントをして頂きたいと思います」
 団長らしき紳士(おそらく本サーカスの名前となっているミラクル小林氏だろう)の発言の意味は全然わからなかった。アシスタントってなんだ。佐藤さんが乗ってる方じゃない側のポール頂上に誰もいない点がなんとなく気になってはいたんだけど、まさかそこに行けそしてブランキングしろっていう視聴者参加型イベントは催さないだろう。
「じゃあそこのおぼっちゃん」
 ミラクル小林が一人のおぼっちゃんを指差した。おぼっちゃんは席を立ち、小林に誘導されるがままに前へ出て階段を上り歩を進め、佐藤さんが乗ってない側の高いところに到着した。おぼっちゃんの度胸に僕は感服した。
「せーの」
 小さく呟くような声なのに、遠い遠い僕のところまでその佐藤さんの声は聞こえた。それを合図に二人は空中でのブランキングを始めた。きこきこではなく、ぐわんぐわんという激しいそれ。
 ふわっと宙に舞う佐藤さん。目が合った気がした。
 次の瞬間、二人の立っている場所は最初のそれと入れ替わっていた。鳴り止まぬ拍手喝采と深々おじぎする佐藤さんとおぼっちゃん。ほっぺたをつねってもやっぱり目は覚めなかった。仕方なくずっとつねりながらテントを出た。頬の皮が入場前より伸びていた。

「七月くん」
 頭を電柱にガンガン打ちつけている僕を呼び止めたのは、ジャージ姿の佐藤さんだった。
「頭ぶつけて何してるの?」
「つねるより効果的かなって思って」
「ふうん。そんなことより見に来てくれてありがとう」
「うん、いや楽しかったよ本当に凄かったし」
「七月くんが練習付き合ってくれたおかげ」
「そか」釈然としないけどまあいい。
「でも佐藤さんも凄かったけどあのおぼっちゃんも凄かったね」
「うん。なんかあんまりに才能あるから団長が熱心にスカウトしまくってお金積みまくってそれで入団承諾してたよ」
「へえ」今日という日の人生のターニングポイント具合エグいなおぼっちゃん。
「それより私、七月くんに大事な話があって」
「なに?」
「さよならなの」
「さよなら?」
「サーカスだから次の町に行かなくちゃだから、だからさよなら」
「そか」
 理不尽に思ったのも束の間、よく考えればもっともな話ではある。いつまでも一つの町に留まるサーカスなんてサーカスじゃない。サーカスは旅してなんぼだ。その通りだ。その通り。その通りなんだけどわかってるんだけどでもだがしかし。
 佐藤さんはすまなそうに静かに微笑んだ。僕はただ黙っていた。黙ってしまっていた。だって明日から僕の隣は空席だ。ここ最近で一番強くほっぺたをつねってみたけど、ただただ激痛だった。からからした風がぶうぶう吹いた。揺れるブランコが脳裏に浮かんだ。

「佐藤優子さんは家庭の事情で急遽引っ越すこととなりました。うんまあ、というかもう引っ越してしまったんだけどね。本当に急なことで先生も聞いたのはついさっきで、それより七月どうしたんだそんなにほっぺをぷうっと膨らませて何か先生気に障ること言ったか。それともおたふく風邪か」
 担任がうだうだ喋る、今日もいつものホームルーム。家庭の事情ときたか。名実共にミラクル小林大サーカス団は佐藤さんの新家族になったわけだ。だから彼女はもう小林さんだ。こんなとき感傷に浸るような人間は実にくだらないと思うけど、僕の口からはため息が出る。出てしまったんだからしょうがない。

 帰り道、昨日テントがあった場所に行ってみた。もちろんもうテントはなかった。世の中そんなに僕に甘くない。念のため公園にも行った。特に何もなかった。少しだけ期待した自分がバカみたいだったので、腹立ちまぎれにブランコに座ってきこきこやってみた。驚くほど楽しくなかった。
 沈みかける夕日を見ながらぼーっと考える。果たしてあのとき、おぼっちゃんが指名されるより早く僕が挙手していたら。そしたら僕は今どこにいただろうか。佐藤さんみたいにふわっと宙を舞えてただろうか。拍手喝采を浴びられただろうか。
 日が完全に沈む頃、僕は立ち上がり座っていた椅子をがんと蹴とばした。不規則に揺れながらそれはきいきいと僕を笑い、それで僕はサーカス嫌いになった。なるさそりゃ。

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