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恐山雑記

 曲がりくねった山道を路線バスで上っていると、雨がぱらぱらと降り出して、山道の先が煙のような白い霧に覆われはじめた。般若心経の流れるバス内に乗客は自分含め二組だけで、秋の深まるみちのくは車内であっても肌寒くて仕方なかった。もっとも、それは本当にバスの空調のせいだったかどうかは、今になってはもう分からない。

 北陸に生まれ育った自分にとって、青森県とはとても遠く、同じ本州でありながら北海道よりも離れているような、曖昧ながらも「世界の果て」のような場所だった。源義経が逃れ着いた平泉よりも、更にずっと向こうの場所なのだから。大間崎、そして下北半島はその「世界の果て」の最たるものだ。大間崎からむつ市行きのバスに乗って太平洋側の海岸を縫うように走っているときも、自分がそこにいることが不思議に思えるくらいだった。

 昭和の残り香を引きずるようなむつ市バスターミナルから恐山までは、せいぜい半時間程度で到着してしまう。般若心経が流れるバスは、途中の湧き水で一度停車する。しかし雨が降るなかでバスを出る者はおらず、ふたたび山頂へとバスは走り出した。鬱蒼と薄暗い雰囲気の山中の景色が続くが、木々の合間にふと水面が覗く。宇曽利湖だ。湖に沿ってバスが走る。赤い太鼓橋の横を通った。それは古い街並みや寺院の境内には馴染むであろう小さな橋だが、寂しいほど何もない湖畔と山並みの中では、ぎょっとしてしまうくらいに異質なものに感じられた。程なくしてバスは終点・恐山へと到着した。薄いもやがかかったような雨が降っている。恐山菩提寺の入り口へ向かうそのほんの短い間にも、宇曽利湖を取り囲む山々の佇まいに、すでにその異界性の一端を見出さざるを得なかった。重々しい雰囲気の門をくぐり、恐山菩提寺の地蔵殿まで歩く。硫黄のにおいが充満し、中空に白い湯気が立ちのぼる。まっすぐ伸びる道のすぐ横には、水路に湧きだした熱湯が流れている。地蔵殿の横の入り口から、地獄に足を踏み入れた。

 私は地獄の存在を信じていないが、地獄とは血の湖があり、針山に炎と、真っ赤に熱され燃え滾る場所だと思っていた。それはおそらく、一般的なイメージとそう変わらないだろう。しかし、恐山に在る地獄とはそのどれでもない。ただ灰色の、生気を感じられない草も生えぬ岩の集合であり、時折からすが鳴く声が響いて、吹き出す湯気と硫黄のにおいで満たされた静かな場所だ。もし本当に地獄があるのならば、こんな殺風景な場所なのかもしれないと思わされた。恐山には仏教における八大地獄に加え、さまざまな地獄の名前を冠した場所が存在する。八大地獄の中でも最下層の、落ち続けるだけで二千年かかるとも言われる無間地獄を抜けて岩山の中を歩く。雨はすっかり上がり、雨の後の独特な静かで清澄な空気が、心地よい冷たさをともなって残されていた。周囲の山肌はすでに一部が赤や黄色に色づいており、自らが立つ寂莫たる岩場との対比が強烈であった。ただただ灰色、硫黄で黄土色に染まった岩に、参拝者が置いていった鮮やかなピンクや青の小さな風車が何本も刺さっている風景は、さながら地獄の花畑とでもいうような凄まじい景色だった。

 極楽浜に近づくにつれて岩が減り、わずかに短い雑草が這いつくばるように生えている。砂の間から湧いた水が流れる小さな川には、風に倒れた風車と錆びた小銭が沈んでいる。それまでの荒々しい光景が嘘のように、極楽浜はとかく静かで、穏やかだった。涅槃寂静ということばがあるが、まさにそのことばで思い描く風景といってもよい。左右対称に近い山並みが水面に反射し、人工物のない景色と相まって、とても現実の場所とは思えなかった。今のように写真や映像もないころ、はるか昔にこの光景をはじめて見た人は随分と驚愕したことだろう。そして、自分がいま見ている光景は死後の世界であるのだ、と確信したかもしれない。白い砂浜に刺さった風車が、静かに吹く風でカラカラと回っている。また風車だ。恐山でもっとも印象的だったのは自然の生み出した造形ではなく(もちろんそれも畏怖の念にかられるほどのものだったが)、人間が人間を想う心の重さと途轍もなさだった。無数の風車の一つ一つにその思いは現れていたが、風車だけでなく、恐山に置いていかれたすべてがそうだった。地蔵に供えられた錆びてわずかに文字が読み取れるかどうかという無数の小銭、現世に戻る道である「胎内くぐり」の途中に落ちている木の古びた表札、子供の名前が書かれたおもちゃ、それらすべて。そして積まれた石。無縁佛という札が、山のように積み上げられた石に刺さっている。その札の上に、真っ黒なからすが一匹とまっている。日が傾きはじめ、太陽が雲に隠れる。

 ニライカナイや普陀落渡海に代表される海上他界、黄泉国と根堅洲国の地中他界、そして葦原中国と関連する山中他界が主に日本(の神道)では広く信じられてきた。これらは単なる地方信仰にとどまらず、仏教などと絡み合い複雑に変化してきた。恐山はその中でも、山中他界観に基づいた霊山信仰の代表的な場所であり、修験道とも強く結びついている。下北半島では「死ねばお山さ行く」とされてきたというが、実際に恐山は下北半島の中心部に位置し、それは仏教における世界の中心である須弥山を想起させる。また、穏やかで透明度の高い宇曽利湖の水面は海上他界観にも通じるものがあり、かつては供養船に供物を乗せて浮かべる風習もあったという。山中他界観において、魂は四十九日間は屋根の上にいるがその後は近隣の山へ行き、年数が経つにつれて徐々に山頂へとのぼっていく。恐山は死者ともう一度会いたい、死者の霊魂を救いたいという人間の切実な感情が集まる場所であり、決して心霊スポットという言葉だけで表せるようなものではない。恐山といえば、とよく挙げられるイタコも(イタコが恐山で活動するようになったのは比較的最近のことなのだ)、死者と繋がりたいという願いをシャーマンとしてかなえることで、生者にとって重要な役割を果たす仲介者になりうる。人間が人間を想うという営みのつましさの結実、自然を前にすれば人間の命などひどく矮小なものではあるが、その一つ一つには他人が軽く推しはかれないような確実な人生があり、記憶があり、感情がある。

 恐山から出る最終バスを待つ間、空には晴れ間が覗き、午後の傾いた日差しに照らされて宇曽利湖のなめらかな水面が青く輝いていた。生者の世界から山を上って死者と生者の交差する恐山へ行き、山を下りて生者の世界へ戻る。下北駅へと向かうバスでは、途中の停留所で老人から高校生まで、さまざまな人間が乗り込んできた。なんの変哲もない地方都市のその光景が、狭間の世界から戻ってきたあとには、不思議と新鮮に思えた。


これはこの世のことならず、死出の山路のすそ野なる、さいの河原の物語、十にも足らぬ幼な児が、さいの河原に集まりて、峰の嵐の音すれば、父かと思ひよぢのぼり、谷の流れをきくときは、母かと思ひはせ下り、手足は血潮に染みながら、
川原の石をとり集め、これにて回向の塔をつむ、一つつんでは父のため、二つつんでは母のため、兄弟わが身と回向して、昼はひとりで遊べども、日も入りあひのその頃に、地獄の鬼があらはれて、つみたる塔をおしくづす。    

『恐山和賛』寺山修司



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