明るい未来が見えない

 昔、『今は自殺しなくても良いのではないか?』という題のエッセイを書いたことがある。その頃、私は死にたくて死にたくて仕方がない気持ちを五木寛之の『大河の一滴』を読んで克服し、心を奮い立たせる目的で自分に向けて記したのであった。まだ私は30代で未来に絶望するまでのレベルには達しておらず、少しはポジティブになれる精神的余裕があったのだろう。
 しかし、現在、私はかなりのピンチに追い込まれている。両親は体調的にも優れず、姉からは縁も切られてしまっている状態だ。ハローワークにも行ってはいるのだが、どの会社を受けても落ち続けている。障害者年金だけでは独りになったら何もできないだろう。そうなると、若気の至りではなく、本当に身近な存在として『自死』が待っているようにしか思えない。これでは、書物だけで命が救われると捉えることができなくなっているのだ。
 そんな私の唯一の救いは、障害と現状に理解を持っている両親だろう。だが、彼等に頼れる時間は長くはないことは充分に分かっている。親子3人で暮らしている賃貸マンションも出なければいけない時がくるだろうし、今度は自分の身体にガタがくるかも知れないのだ。このような状態の上でプラス思考に発展する要素は何処にもない。正直、明るい未来が全く見えないのが今の私なのである。
 これに対し、日本には生活保護があると言う人もいるだろう。けれども、私が本当にそれを欲する時にその制度が存在しているかどうかは分からないままだ。それに加え、ケースワーカーに可能な範囲内での労働を強いられることは間違いない。以上を頭に入れると、前にも書いたが、明るい未来は全く見えないのである。
 さて、そのような状態にある私の支えになっているのが、現実逃避としか考えられない妄想である。「もし、私と両親が不死身だったら」「宝くじが当たって生活が一変したら」とか「物価が今よりも100分の1になったら」等の絶対に起こり得ないことばかり頭に浮かべている。そうしている間に時が経つのだから、本当に無駄な行為としか言えない。
 この先、人生がどのように向かうかは分からない。ただ、前向きに生きることができないことだけは確実だろう。非常に残念な話であるものの、私に残された幸せは父と母が何とか生きていることだけなのである。

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