何者かになること

 昔、今野君という知り合いがいた。彼は何かと私に攻撃的になっており、その度に口論をするという仲であった。独りになるのが怖いので何となく付き合ってはいたものの、最終的にはストレスが溜まるだけになったので絶交した。
 さて、そのような今野君と私とのやり取りであるが、特に仕事の話が多かった。私が何をやっても長続きしないことを責められ、こちらも彼がコンビニのアルバイトをしながら警察官の採用試験を受け続けていることに対して否定的な意見を述べていた。因みに、今野君は『超』が付くレベルの肥満体であったので、元からおまわりさんになれる要素がなかったことを頭に入れると、単純に就職できない言い訳として苦学生を演じていたの可能性も充分にある。要するに、目くそ鼻くその争いをしていた訳である。
 だが、そんな今野君にも転機が訪れる。年齢制限オーバーで試験が受けられなくなり、何を勘違いしたのか、作業療法士の専門学校に入ったのであった。学生生活を再び満喫しようとする、ある種の『逃げ』だと言える。それに加えて、何故か私への暴言や悪口が増えて行ったのもこの辺りだ。それから、本当に作業療法士になれたかどうだか分からないまま学校を卒業し、彼に関する情報はネットでしか見れなくなってしまっていた。
 数年後、今野君は大きくシフトチェンジをする。作業療法士という肩書をあっさりと捨て、今度は整体院をオープンさせたのである。因みに、そのような行為は特別な資格が要らないので、4年間の専門学校が完全に無駄だったと言えるだろう。家が金持ちだからできる愚行の数々をしてしまう経済力に嫉妬しながらも、何となく羨ましくも思えてしまった。
 そんな現在、その整体院は数々のバレバレなステマをしながらも存続している。そりゃそうだろう、親の金が湯水のようにあるのだから、客の入りは大して問題ではないのだ。貧乏な私としては、それだけで今野君との差が生じているようにも感じられる。
 恐らく、私が金持ちの家に産まれてきたならば、それを目当に何もしないだろう。けれども、今野君は何者かになることで優越感に浸れる人間だからこそ、少し汚いことでも平気でこなしてしまうのだ。そこら辺が我が身との大きな違いであり、同時に価値観の差もはっきりしているのである。
 以上を頭に入れると、私は何もかもが異なる人間と友達ごっこをしていたに過ぎなかったのかも知れない。何者かになること・・・・・・これこそ、今野君が望んでいた人生のゴールなのだから。

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