Diary: 2011.4.28

書けないよ、と思った。でも、書かなけりゃならないと、より強く思った。こんな日記が、いつ、誰の力にならないとも限らない。
手に力が入らない。得体のしれない汗ばかりが出てくる。

生まれて来るはずの僕たちの子が、今日、死んだ。

哀しい。そうだ。すごく哀しいのだ。

僕からこの単純な一言を奪おうとするものが、こんな miserable な状態で、それでも日記を書かせるものが、この生半可な知性だとすれば、今の僕には、それが一番憎らしい。

哀しさの本質とは…そんな定義なんか、目下哀しくも何ともない人に任せときゃいい。僕はいま、ほんとうの哀しさを、はじめて所有している。

もう、それで十分だ。

僕は哀しい、この一言を吐き出すまでに、僕はまた、飽きもせず、いつものように、何千文字もの徒労を経た。僕、この事態を以て曰く、『文章がどうしようもなく下手』。それは大当たり。僕は、そういう下手さだ。

言葉が無駄に滑り過ぎる。「妙観が刀はいたく立たず」、僕の刀は要らぬ所ばかりを傷つける。その切創の最大の被害者は、もちろん僕自身だ。常に自分を言葉で表せず、言葉に合わせて自分を演じる、こんな茶番ばっかりだ。

哀しみ。突然襲う不遇。なぜ自分がこんな目に、と思わない人がいようか。そう、それは皆が思うことだ。僕も思った。ひどく思った。「なぜ自分が」、そう言ったとて、何が不格好なものか。格好なんかがそんなに大事か。身も世もあらぬほど悶えて苦しんで悲しんで、それを無粋と小バカにするような根性、それこそが倒錯した最大の無粋だ。

待ち望んだ子を生かしてやれなかった古今東西全ての無力な人の哀しみ、僕は今日、やっとのことで、そこに想到した。哀しみは概念ではない。こういうやるせなさを、皆が≪哀しみ≫と呼ぶのだ、という、とても明瞭なことを、僕はこの身でちっとも知らなかっただけだ。

僕のこの哀しみは、ちっぽけなものかもしれない。もっと巨きな哀しみを抱えた古今東西の人は、もしかしたら僕を哂うかもしれない。
哂われても構わない。僕は僕のこの哀しみに、それがちっぽけならちっぽけなりに、出来る限り誠実に今を過ごしたいだけだ。

いや、僕の直観はこう教えてくれる。哀しみを知る人は、決して誰も僕を哂いはしない。深い哀しみを帯びた眼で、僕を優しく見つめてくれている。哀しみを知らない、例えば、昨日の僕のような人が今の僕を哂う、哂う素振りを見せる。そんなことは、もうどうだっていい。本当にどうでもいいのだ。

誰を責める気持ちもない。誰を憎みたいわけでもない(憎んでしまう、羨んでしまう弱さは多分にあるけど)。世界で生きるというこのことは、この手の事態を全て込みにして、進んでいくのだ。いいことだの悪いことだの、価値判断は所詮、あさはかな人の業に過ぎない。

 正直なところ、出来れば、あと数十年程度の生涯、出来ればだが、このような気持ちを味わいたくはない。だが、おそらくいつか父母も死ぬだろう。知己のいくばくかも鬼籍に入るだろう。
掛け替えのない何かが無言で根こそぎ流される、そのようなあまりに多くの人を、僕は先日、目の当たりにしたばかりだ。

僕の微力 ―それは無力に限りなく近い― では、つまりは、祈ることしかできない。そういうことばかりではないか。祈る、とは何なのか!

さて、一旦心を解きほぐそう。

かねがね、【リスク】という洒落た科学的な考え方が僕(たち)の生活を蝕んでいる、という直覚がある。それは例えば、今回の禁煙によって、初めて僕にとっての喫煙とは何かが見えかけた、という事態と軌を一にしているように思う。そのリスクとは、確率統計の「正しいのにしっくり来ない感覚」のヴァリアントだ。

僕の人生はひとつだ。二度とない。二度とないものに対しては、本来0か1かしかあり得ない、
にも拘わらず、僕を取り巻く無数の統計は、僕の生活におけるリスクの長い長いリストを提供してくれる。煙草を吸えば肺を病む、のではない。煙草を吸えば肺を病むリスクが増大する、のだ。
やっぱり煙草?…一事が万事だ。

 しかるべく頑張れば、リスクは下がる(指針が正しければ、の話だが)。しかし、そのことは決して、もう大丈夫、を意味しはしない。それは例えば、煙草やめたけど隕石当たって死んだ、的な、ナンセンスな詭弁ではない。僕が言いたいのは、リスクは下がるかもしれないが、リスクが0になるという事態はなく、あるリスクを下げる/下げようとすることが、別のリスクを増大しうるというような相互依存的な世界で、僕たちは恐らく生活しているはずだ、ということだ。そして、僕たちの知性とやらは微々たるもので、それらの linkage すべてを網羅することは、『絶対に』不可能なのだ。

【減=リスク】という宗教が広範な人気を博しているのは、その科学の匂いだけではなく、それが「なるたけ後悔を減らしたい」という人性に付け込んでいるという側面も大きい。そして、それもこれも全ては『長命』という究極の目的に殉じている。

不死などない。
人は死ぬ。
かと言って、だからいつ死んでもいい、という単純なものでは、もちろんない。君は明日死にますと言われれば、何とか明後日になりませんか、と懇願する。そのような感じのものだ。
だが、やはり不死などない。人は死ぬ。かと言って、

……という体の堂々巡りにいい加減嫌気がさし、恐る恐るその本質を凝視すれば、見えてくるのは、次の二つの風景のどちらか、である可能性が高い。

ひとつは、ともかく死を限界まで先送りする、という力づくの生き方。
そこで要請されるのは、眼に映るリスクの排除、という絶え間ない努力、克己の態度である。【減=リスク】教への帰依の瞬間だ。

もう一つは、そもそも死を怖れないという態度変更であり、そこにおいて重要なのは、リスクの排除ではなく、むしろリスクの抱擁であり、リスクと共存する姿勢である。
とは言え、死を怖れない遣り方なぞ、ダイエットや禁煙とは違い、誰一人として的確な方法を知る由もない。おのずと十人十色の持論を展開することとなり、それがほとんどの既存宗教である。

 ほとんどの人は、意識的/無意識的の別なく、また濃淡の差はありつつも、上記の二項の中間を採用している。僕はアメリカに前者、禅(特に臨済禅)に後者の粋を見る。どちらが正しいも何もなく、それがつまり宗教だというだけの話だ。僕個人としては、後者への憧憬が捨てがたいのだが。

*

そして話は僕の心に戻る。

【減=リスク】に、哀しさを救う力はない。より正確に言うならば、リスクを限界まで削減した後に、それでも彼を襲い、彼が直面せざるを得ない哀しさ、それはきっと彼の心に、癒しえない憎悪や、どうしようもない自暴自棄を生むことになる、いま、そう感じるのだ。彼曰く「こんなに頑張ってるのに」。言うまでもなく、彼、とは僕のことだ。

「こんなに頑張って」も、世界は、思うに任せないことだらけだ。この真理は変えられない。文明総動員で少しばかり減らせても、どっちみち、また別の思うに任せないことが生起する、そういうように出来ている。

そりゃ、頑張らないことの後悔だって、確かにある。たくさんある。頑張って何とかなる(はずの)フィールドも、この世界にはあるからだ。
しかし、それは本当に、ほんの一部に過ぎない。過ぎないのに、僕たちは妄想の中で、それを実際よりはるかに広いフィールドで(酷い場合はあらゆるフィールドで)適用可能だと、いつの間にやら思い為すようになってしまった。

*

嫌気が差した。僕たち、なんていう大風呂敷は畳んでしまおう。

僕が僕の哀しさに出来ること、それを今晩、たくさん考えている。

まずは、哀しみはいつ襲ってくるか分からないのだというこのことを、いつも微笑みの隅っこに秘めておこう。

そして、哀しみを別の感情だと偽ったり、そんなものは存在しないのだと意気込んだりする必要は全くない。周りに不要の気など使わず、誰憚らず、心行くまで、涙流して哀しむことにしよう。

さらに、哀しみは僕をすごく哀しませるけれど、僕を完全に損なうことまでは出来ないのだ、ということをしっかり覚えておこう。

哀しい僕と他人と比べないことは、哀しいときには特に大事だ。哀しいときは、世界の隅々までが、尖って感じる。でも、それは必ずしも世界が尖っているのではない。僕の心が尖ってしまうことで、それに感応して万物が尖るのだ。世界に悪意がないとは言うまい。だからこそ、悪意に対して全力で僕自身を閉じること。言わば、【呪い】から全力で逃げること。これだけに力を傾けてもいいくらいだ、と思った。

 殊に今回、僕の哀しさは、子を育めなかったことそのものより、遥かに多く、妻に対する申し訳無さ・憐憫・無力さ、いや、『○○○(ここに的確に嵌まる語彙がないのが悔しい)』に由来する。
僕は(無責任にも)単に哀しいだけだ。しかし、彼女は哀しく、そして、恐ろしく悔しく辛く屈辱的で居たたまれなく、きっと僕の何層倍も多くの無念を背負っているのだ。そのことが僕をさらにさらに、どうしようもなく哀しくさせる。

*

 だが、僕はもう、そのような自己愛に根差した負の連鎖を断ち切らなければいけない。彼女は健康だし強運だし、何より敬虔で勤勉な人間だ。贔屓目なしに。

だから、大丈夫なんだよ。

僕はただ、祈る、祈る。これまで持ち得なかった熱心さで、祈る。

祈って、祈って、祈った後に、いや、祈りながら、僕はきっと、少しずつ、本当に少しずつ、僕の周りの掛け替えのないものを守るために出来ることに取り掛かる。
それは、昨日までの当たり前を続けるだけ、かもしれないし、何かをすっかり変えてしまう、かもしれない。ただ、その時、僕は、昨日までより、他人の表情とか、場の空気とかを、少しだけ読まないのだろうな、と思う。そう望む。

 僕は彼女を守れると信じたことを、利己的に推し進めて行こう。
まずは僕が健全であることからだ。そして、僕と彼女、二人が笑顔なら、断固そうしよう。それが正しいことなのだから。
あらゆるお仕着せの思想やら常識やらを、しっかり正しく聞き流し、僕たちがしたい、しなければならない、そっちの方向に毎日てくてく歩いてゆこう。

今まで通り、手をつないで。