3.11を想う、約束の虹を架けて。
今から11年前の2011年3月11日午後2時46分。
大きな地震と津波が日本を襲った日。
あの日のことは今でも覚えている。忘れることが出来ない。
感じた事を書き綴ってみる。
3月11日に起こったこと
当時書いたブログの記事を読み返すと、ただただ落ち着いてない状態だったことが記事から読み取れることに気づいた。
この日は有給をとって休んでいた。昼間までは実家にいたが、午後アパートに戻る途中、武蔵野線の電車の中で地震に遭った。
ものすごい急ブレーキで止まった記憶しかなく、車内で大きく揺れた記憶が殆どない。
ただ、その後完全に電車が止まり、余震で揺れる車内でいつになったら動けるんだろうと不安になっていた。
そして、誰かが携帯のワンセグで津波が発生したという映像をちらっと見て、ただ事ではないということに気付かされた。
結局1時間半過ぎたあたりで、線路に降ろされて一番最寄りの駅まで線路を歩くことになった。
その最寄り駅は私が住んでいるアパートの最寄り駅だったのは幸いだった。もし、それより遠かったら、私も帰宅困難者で歩いていたのだから。
帰宅して、たまたま休みが重なっていた彼と合流。彼は駅近くのドーナツショップにいたところで地震に遭ったそうで、店内は大変だったと言っていた。
部屋にいてTVを付けてみたら、津波が街を襲っている映像を目の当たりにし、言葉にならなかった。黙って見るしかないことが辛かった。
思いを書き続けてみて
地震が遭った翌日と翌々日、佐野元春さんが東京でライブを行う予定だったけど中止になってしまった。
その時のことはブログにも書いた。
ライブがなくなって時間が出来た土曜日。
少しでも助けになれるようにと献血を受けに行ってきた。
献血を受けている間、座席横にあるTVで目にしたのが、福島第一原発が爆発する映像だった。リアルタイムで映像が映し出されているのを見て、ただただ言葉を失ってしまった…。
これからどうなるんだろう。
そんな事を感じながら日曜日、実家に帰宅。
家族と再会し、無事を確かめあえた。
月曜日からは当時勤めていた中野の会社に出勤。ところが、原発事故の影響で計画停電が始まり、列車の本数が激減したことで通勤が大混乱になってしまった。
震災の被害が日に日に大きくなるニュースに心が痛み、混乱がしばらく続いていたような記憶がある。
震災から1週間ほど経った頃に書いた記事。
葛藤は続いてるけど、少しでも前向きになろうという思いで書いていた。
2ヶ月後の5月31日に書いた記事。私が通っている教会の機関誌向けに書いたものである。
まだ2ヶ月。これからどうなるんだろうという思いがありながら、それでも癒やされるときが来るという願いを込めて書いた。
「約束の虹」は今も…
その記事の中に、聖書の言葉を使ったところがある。
この記事を読み返して、改めて感じた事がある。
震災で失った人、モノ、家、生活が多くある。
11年経った今も癒やされてない人が多い。
行方が分からない人が2000人以上いる。
今も避難生活が続いていて、元いた場所に戻れないひとがいる。
震災のことだけでない。
震災後も多くの場所で地震、災害が発生し、大変な状況に遭っている人がいることも忘れてはならない。
新型コロナウイルスの影響が2年経った今も続いている。
コロナにかかった人、そして、コロナの影響で様々なところで制限がかけられてしまった人がいる。
そして、先月末から始まったウクライナへの攻撃。
情勢が日に日に厳しくなっている中で、亡くなった人も増えている。
多くの人達が他国へ避難しようとしているのを見て、震災のときに多くの人達が避難生活を余儀なくされた姿と重なって見えた。
これからどうなるんだろうと、不安になっている人たちも多いと思う。
でも「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。」と神様は約束してくれるのだから、その事を信じて祈っていきたいと思う。
私が通っている教会で行われた祈念会。
残念ながら教会に集まっての開催が出来なかったけど、ピアニストによる演奏と御言葉に耳を傾け、14:46、教会の鐘の音を聴きつつ、黙祷した。
「希望」と「約束の虹」
地震の翌日に見に行く予定だった佐野元春のライブ。
元春は地震があった翌日、自身のサイトに一編の詩を寄せた。
『それを「希望」と名づけよう』
詩を読んで感じたことは、不安がある中でも希望を見出す事ができる。
元春から「希望」という言葉をもらい、私自身が勇気づけられた。
「希望」と「約束の虹」を心に持ち続け、いつか穏やかな日常が戻る事を願いつつ、一日一日を大切に過ごしていきたい。
元春の名曲「レインボー・イン・マイ・ソウル」。
「失くしてしまう度に、君は強くなる」
力強い歌詞に励まされて、これからも歩んでいこう。
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