振り子の綱のぼり
なんだかんだ午前は家庭の事情で振り回されて終わるので、もう5分日記を書く時間は意識しないように思い始めている。
設定した根拠が薄くて、継続へのコストが大きい縛りは、無駄なできてない感の温床になるしね。
それにしても、この見直ししないで5分縛りの日記に、さりげなくハートマークの通知が入っていることに今、ちょっとドキドキしている。
グラデーションのサムネ画像の効果なのか…。写真を撮る者としては、いろんな意味で気になります。もしかして、グラデ最強なの?
さて、タイトルから早速脱線しているうちに5分になりそうなので戻ると、人間の精神的成熟って、振り子の綱を登るようなもんだよなあっていう話。
振り子にぶら下がってると想像してみてほしい。下の先についている振り子の錘に近いほど、大きく揺さぶられ、上に行くほど、ほとんど感じなくなる、のがイメージできるだろうか?
世の中生きていると、いろんなことが起きるけど、その現象がある振り子の運動だとすると、わたしたちはまず振り子の錘と同じ場所からスタートして、少しずつ上を目指して登っていく印象があって。
つまり、最初は些細なことも振り落とされるような大事に感じるけれど、何度も振り子の往復を経験し、登っていくうちに、
「今はこっちに思いっきり吹っ飛ばされてる気がするけど、いくところまで行けば、また反対側の動きになるのだろう」と見通しをもったり、
振り子を見下ろして、それ自体を意識することができたり、そもそも登ることで振り子のエネルギーが届きにくくなるって感じ。
ただ、あくまでこれはメタファーで、家族が相手となれば、綱をしゅるると一気に降って、遊園地のアトラクション並みに大きく振り回されて目を回すこともあるし、
敢えて果敢に揺さぶられにいくこともあるし、楽しむために降りていくこともあるから、あくまで自分の落ち着く場所がより高い場所になっていく、言い換えれば昇り降りする腕力がついて、移動できる範囲が増えるっていう感覚なんだけど、
まあ、今日の午前は、振り落とされて、一緒に散々振り回されて目を回して、ようやくいつもの場所に戻ってきてホッとしているってところで、こんなことを書こうと思ったのでした。
5分過ぎた気がするので終わり。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。