それは、未完成の「彼女」の物語 あるいは「遙か4」というゲームの話

「遙かなる時空の中で4」というゲームがある。2008年発売のゲームだ。

わたしはこのゲームについて10年たってもいまだに消化しきれていない部分というか、納得しきれていないナニカが胃の奥底にたまっていて、そういったものを吐き出してスッキリして、なおかつ誰かが共感してくれるといいなあぐらいの軽い気持ちで「遙か4のここが残念でした」みたいな記事をnoteで公開した。ついこの間の話だ。したらちょっとびっくりするくらいの反響があった。

「わたしもそう思ってたんですよ!」と同意してくれる人、「長年のモヤモヤが解消されました!」と喜んでくれる人、「自分の気持ちを文章に出来て偉いですね!」とほめてくれる人(ありがとうございます)、ポジティブなのもそこそこあったのだけれど、同じくらい「10年前のゲームに今更文句を言うなんて陰湿だ」とか「キャラソンさん、好きだったのにこんなこと言う人だとは思わなかった、嫌いになりました…」とか空リプでめっちゃ怒られた。本人のリプライとかマシュマロに投げずに空リプで言うの、配慮してくれてるなあ、と当初わたしはのんきに感心していたのだけれど、そのうちにわたしのnoteを離れて「遙か4」ムーブメントはどんどんどんどん拡大していき、「そうはいってもクソだったじゃないか」「このゲームが好きな人が傷つくとは思わないのか」みたいな論争に発展し始めたあたりで「おっ?」となり、「そもそも10年たってもシナリオの文句言い続けてる古参は陰湿だ、そういう害悪がいるからジャンルに新規が入らないのだ」みたいな学級会案件になってきたところでわたしは頭を抱えてnoteを下げた。

実際の所、本人が意図した内容でないものがどんどん拡散していくのは世紀末インターネットTwitterにおいては必然ともいうべきことで、この場合いくら「そんなつもりじゃなかった」とわたしが言っても意味はないと思う。傷つかれたファンの皆さんには心からお詫びします。申し訳ありませんでした。とはいえわたしが嫌われるのは構わないけれど、「遙かなる時空の中で4」というゲームが未プレイの人にとって学級会を引き起こしたゲームで終わってしまうのは悲しすぎる。誰かが擁護記事を書いてくれないかなーとひそかに期待して沈黙していたんだけども、だれも書かなさそうなので火消しを兼ねて自分で書きます。なるかわからないけど。遙か4というのはわたしにとってどういうゲームだったのか。


読んで字の如く、「遙か4」は和風乙女ゲームの金字塔「遙かなる時空の中で」シリーズの4作目だ。ここで、これを読んでいる未プレイの皆さんにおかれましては、この認識を一旦捨てていただくようお願い申し上げます。

え?突然何を言い出すんだって?それは、「遙か4」という稀有なゲームを語るうえで、そういった有名シリーズのナンバリングタイトルであるという肩書がノイズにしかならないからだ。特に「遙かなる時空の中で3」という乙女ゲーム史に残る傑作の後続作品であるという事実は、続く4にとって大きな祝福でありかつ呪いにもなってしまった。その大きすぎる影響力によくも悪くも発売当初のわたしたちプレイヤーの目は曇っていて、この作品の本質をとらえることを難しくさせていたと思う。今回再プレイしてみて、遙か4はお姉さん3人とぜーんぜんちがうぞ、という気持ちがむくむくと湧いてきたので整理してみよう。どこが違うのか。

初代遙かと遙か2は世界を救う話である。異世界に召喚されたごく普通の女子高生である神子たちは、穢れに侵され危機に瀕した世界を救う救世主として奮闘する。清らかな神子と八葉の心の交流が描かれ、乾いた彼らの心が元の色彩を取り戻していくごとに、世界は救われていく。この2作は世界、ひいては八葉が愛を得る物語だ。

続く3は、大胆に路線を変えた。神子は世界を救わない。源平合戦の動乱の時代の中で、歴史の大河は大きな音を立てて流れていく。神子は、その中に埋もれて消えていく一滴の命を掬いあげるべく奮闘する。革新的なシステムに載せて、「あの人に生きていてほしい」という普遍的な願いを描いた。3は、前2作とは逆に、神子が愛を得る物語だった。

これら3作に共通するのは、どれも「愛」が大きなテーマになっているという点だ。まあ考えてみれば当たり前である、だって乙女ゲームだからね!イケメンと恋愛してナンボでしょ!ネオロマンス最高!異世界から舞い降りた平凡な少女と和のイケメンたちのハッピーラブストーリーに乙女たちは大いに胸をときめかせたわけだ。

となって期待の新作4である。4のあらすじをここで簡単に説明しておくと、「異世界の古代王国の二番目の姫君であった主人公は、王国の滅亡とともに記憶を失い、現代で暮らしていた。ひょんなことから異世界に舞い戻った主人公は、失われた祖国を取り戻すべく、戦乱に身を投じていく…」というものだ。

当時の遙かファン「……????」

だってそうじゃん?それまでの3作品の主人公はその中身はどうあれ一般女子高生として設定されていた。4の主人公、千尋も現代で暮らしていたときは女子高生として過ごしていたけれども、わりと現代パートはすぐに終わり、後はずっと異世界の姫パートが続くわけである。まあ前3作も現代パートはごく短かったけど、その後に異世界で大いに戸惑う様子が描写され、我々の感覚が物語に入り込む隙を与えてくれたわけで。千尋は異世界に飛んで割とすぐに「姫!」と呼ばれ、本人もそれに異論をあんまり唱えないので、プレイヤーによっては姫に置いてきぼりにされたままゲームが進行していくことになる。余談なんだけれども、最新作7の主人公も信長の娘という異世界の姫に割と似たスペックの持ち主で、淡々と異世界の様子を受け入れていく様子が「感情移入できない」と一部で批判されており、4を思い出して大いに懐かしくなったものである。閑話休題。

とにかく、今までになく積まれた設定と、和風を通り越して古代という新しい時代設定、王国を取り戻す戦記物、主人公はそれを率いる指揮官という新しすぎる要素に当時のプレイヤーは大いに戸惑ったのだ。そしてその戸惑いがゲームをクリアしてからも消えない人もいた。推しとの恋愛が短かったり、そもそも推しが死んだり、推しとの恋愛がパラレルワールドだったり。その戸惑いの渦はインターネットの波に乗って波及し、KOTY乙女ゲーム部門にノミネートみたいな前代未聞の事態にまで発展してしまった。

ここで突然だけれど、ネオロマンスの大先輩、すべての源流たる「アンジェリーク」パイセンの話をしようと思う。アンジェリークのシナリオはいたってシンプル、主人公は、ある日突然宇宙の命運を背負う女王候補として選ばれたごく普通の女子高生。宇宙を支える守護聖様と交流しながら、女王に選ばれるべく頑張る、というのがおおまかな流れだ。もちろん守護聖様はキラキラしたハンサムぞろいなので、お話ししているうちにフォーリンラブ♡みたいな事態も大いにあり得る。むしろ大体のプレイヤーはそっちをメインにプレイしていると思う。

しかしながら、じゃあ続編では主人公とラブラブな守護聖様が拝めるのね、といわれるとそういうわけでもない。続編になると主人公アンジェリークはだいたい女王に即位しており、特に恋をしている様子は見られないのだ。ちなみに恋しつつ女王の座もゲット、というよくばり状態は不可能である。恋か、使命か。女王になるべく自分を戒めていたのか、もしかしたら誰かと恋していたけれど、女王としての使命をとったのかもしれない。アンジェリークというのは、キラキラした少女漫画的世界観に見せかけて、実はシビアな女性のキャリアパスについての物語なのである。

これ、「遙か4」に似ていませんか。

遙かなる時空の中で4のラストにおいて、姫であった主人公は多くの場合、「葦原中国」の女王に即位している。その中で恋した相手と結ばれている場合もあるけれど、結ばれずに終わる場合もある。エンディングを迎えたら、よほどのことが無い限りだれかと結ばれている前3作とは対照的だ。作中でも、姫という立場が恋をする障害になる場面が多々存在する。女王として立つためには、時に己の恋心が邪魔になる場合もあるのだ。

アンジェリークというのは女性向け恋愛ゲームの元祖と呼ばれるけれど、最初から恋愛をすべての目的として作られたゲームではない。恋した男性と暮らすのもあり得る終わり方のひとつではあるけれど、それがすべてではなくて、一番大きなテーマとして「少女の努力と成長」がある。あくまで少女の自己実現が主目的で、その結果として幸せな恋や、女王としてのキャリアの実現が存在するのだ。

前の方で、「遙か」シリーズのひとつであるという認識はいらないと書いたのは、つまりそういうことだ。従来の遙かとは、恋愛がメインという前提からしてズレているのだ。


もうひとつ全然関係ない作品を紹介する。誰もが知っているだろう名作だ。

多分わたしが説明しなくてもみんなあらすじを知っていると思うので、貼り付けた動画のシーンだけ説明する。公務から抜け出したアン王女が、街の美容院で長い髪をバッサリ切り落とす場面だ。短くなった髪を見つめ、最初は恥ずかし気に、そこから段々と誇らしげな顔に変化していくオードリー・ヘップバーンの演技が素晴らしい。

この髪を切るシーンが重要なのはショートヘアのアン王女がはちゃめちゃにカワイイからではなくて、髪型の変化がアン王女の心境の変化をそのまま表しているからだ。窮屈な公務から、開放的な休日へ。「失恋したら髪を切れ」という言葉がある通り、髪型の変化は心の変化をもたらす。

遙か4でも髪を切るシーンが存在する。ルートによってシチュエーションは違うけれども、髪を断つのは一緒だ。その時のセリフを抜粋する。

「私はあなたを怖れたりしない。いつかあなたに勝つだけの力を手に入れたら…。」
「あなたを必ず倒す!」

ここでいう「あなた」とは、その時に対峙していた敵である。と同時に、彼女はこの時、また違ったものと対峙しているのだ。それは己の弱さである。彼女が断ち切ったのは髪だけではなく、女王となるうえで不要な、己の中の怖れであり弱さなのだ。

遙か4は主人公の姫、千尋が女王になる物語なのだけれど、正直なところ、中盤のこのシーンまで千尋は上に立つ覚悟を決めていたわけでは全くないのではないか。訪れる場所で様々に人助けをするけれど、それはどちらかというと場当たり的な善意にすぎず、助けたあとの人々がどうなるか、助けた人の人生を己が背負うのか、といった部分には考えが全く及んでいないように見える。それはおそらく千尋がそれまで普通の少女でしかなかったからで、それどころか、場合によっては普通の少女よりも欠けている部分があるからだ。

遙か4が異色な理由はここにもある。千尋は幼かりし頃、国を守る龍神の声が聴けずに霊力の低い姫として周りから軽く扱われていた。女王である母には拒絶され、家臣からは陰口をたたかれる日々の中で、尊敬していた姉は行方不明になってしまう。そのうちに故郷は滅亡し、記憶を封じられたうえで、「しなければならないことがある」という漠然とした焦りと共に現代で暮らしていた。千尋は、健康的な精神を持っていた歴代の神子と比べて自尊心が低い傾向にある。

そこで異世界に戻され、周りから「故郷を取り戻せ」と一方的に言われるがままに従い、故国のために戦い始めることになる。一部の家臣は彼女の王としての技量に疑問を抱き、それを直接投げかけてくるが、それも当然である。彼女が王として戦っているのはそう求められたからであって、彼女自身がそう望んだわけではないからだ。中盤になって彼女はそれに気が付き、自らの迷いと弱さを振り切りように髪を断つ。

故郷を取り戻すための戦いは、彼女の自尊心を取り戻す旅路とイコールなのだ。

ローマの休日のラストで、アン王女は記者のジョーに別れを告げて、王位継承者としての日々に戻る。そこに幾らかの悲しみはあれど、悲壮感は存在しない。ローマの休日は愛の物語ではなく、一人の女性のアイデンティティの獲得の物語だ。

それと同様に、遙か4は我々乙女ゲーマーの恋の物語ではない。葦原千尋という、未完成な女王の紡ぐ不格好な英雄譚だ。彼女は最後まで未熟で、もしかしたら王の器ですらなかったのかもしれない。それでも、女王として立つことを選び、そのために戦った。我々プレイヤーはそれをゲームというかたちで追体験しているにすぎない。プレイヤーに出来るのは、彼女と彼らの覚悟を受け入れることだけだ。

そういったゲームが、「遙かなる時空の中で」という名前と共に乙女ゲームとしてパッケージングされてしまったところにちょっとした悲劇がある。幸せな恋が出来ると期待して買った乙女が崩れ落ちるのもそれは道理だなというところがあるし、そもそも「神に抗い、恋を貫く」というキャッチ自体が嘘っぱちだ。いや嘘じゃないんだけど、それは主人公のセリフじゃないっていうか…ともかく、遙か4は前3作とは関係ない、単体のゲームとして評価されるべきだった。

あとわたしが冒頭で10年たっても消化できなかったと書いた通り、未だに納得できない展開や粗削りな部分、回収されていなかった伏線も正直存在する。千尋が未完成な女王であったように、ゲーム自体もまた未完成のような趣がある。ゲームシステムもいまだに賛否両論で、秀作や名作としてカテゴライズすることは難しいだろう。

けれど、わたしが批判するような記事を書いたら怒られが発生したように、愛している人が多いのもまた事実である。わたしが遙か4の話をしているといろいろな人がそれぞれの4にまつわる思い出をマシュマロに投稿してくれたし、タイムラインでもみんなが4について言及していた。キャラにまつわる愛憎溢れる感情をマシュマロにぶっこんでくれた人もいた。よくもまあそんなに新鮮な憎悪を10年も保存しておけたものだと感心してしまった。そもそもわたしだって10年たってわざわざこんなクソ長い記事を書いているのだから、大好きなのだ。このゲームが。

パワーのあるゲームである。良くも悪くも。

もしこのnoteを読んでいる人で未プレイの人がいたら、何においてもまずプレイしろ、とは言わない。世に名作とよばれるゲームはたくさん存在していて、その中であえて遙か4をプレイする意味は大きくはないだろう。ただ、あなたがプレイを選択した時に、その選択に全く意味がない、ということはありえないと言い切れる。未完成な彼女の旅路は、必ず、あなたの中に何かを残すだろう。良いものであれ、悪いものであれ。「遙かなる時空の中で4」とは、そういうゲームだ。


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