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友達への道〜敬語について

 今回は前述した通り「となりの雑談」のインスタライブを聴き思ったことを書く。冒頭、さくちゃんとスーさんが友達になった経緯をリスナーから質問され答えていた。その中でスーさんがさくちゃんに「できれば敬語をやめて欲しい」とリクエストしたエピソードが語られた。

 私が第2子を産んだのは40歳を超えてから。子供を介して知り合う所謂「ママ友」は当然年下ばかり。それもあってか敬語を使われがちだったことを思い出した。当時「お互い『同じような年齢の子供のママ』という立場で上も下もないのだから、タメ口でいいじゃん」と思っていた。スーさん同様「こちとら意思で動いている」ので「いつまでも敬語で話すということ=私との距離は詰めたくない」のだと認識していた。さらに「敬意を払われるような社会的立場にある人間でもないのに、敬語を使われるということは、よっぽど偉そうに見えるのかな。敬遠されちゃってるな。」そんなふうにも思っていた。「こちとら全部意思」派は、偉そうに見えてしまいがちな面もある。

 もっと仲良くなれたらいいなと思う「敬語を使う方」もいたけれど、早い段階で諦めた。母はお互い忙しい。それでなくとも私はエネルギー量が少ないのだ。相手から敬遠されているらしいと感じているのに、頑張って距離を詰めようとはなかなか思えない。そもそも「ほっち」でも割と平気なタチだ。人との交流自体は楽しいけれど、友達という関係を無理に構築しようとは思わない。友達って「わざわざ作る」ものではなく「ある時期の」+「より仲の良い」+「状態」でしょ、っていう気持ちが強いのかもしれない。ただ、大人になればなるほど、そんな態度ではなかなか「友達」はできない。重々承知だ。
 ああ。なんだかやっぱり友達への道は険しい。自分と似たようなタイプや生活様式なら比較的容易に親しくなれても、同じ景色を全く別の視点で見ていたり、全く捉え方が違ったりする人と擦り合わせていくのは、お互いに相手に対する好奇心やエネルギーがより多くないと成り立たない。

 「多分敬語で話していたら友達になりづらかった」「超分かる」と語るお二人。
 スーさんの勇気、自分とは違うタイプの人に対する好奇心やエンパシーのある姿勢が本当に素敵。スーさんの言葉を受け取って、それなら頑張ると敬語をやめたさくちゃんもとっても素敵。いいな。こんなふうにお互いが自然に歩み寄れたら、友達になれるのだろう。こんなさくちゃんとスーさんのように、全く違うタイプだとしても互いを知ろうとして仲良くなる、そんな関係に心底憧れている。今だって友達はいるし、友達の数が多ければ多いほどいいという価値観は持っていない。でもまだ人生が続くのであれば、自分と似たタイプや状況の人ばかりでなく、もっと色々な人とこんな友人関係が持てたらいいなと思う。

 この敬語についての思いを近しい人数名に話してみた。すると異口同音、意外な意見が帰ってきた。「敬語=距離を詰めたくない」とは限らない。らしい。思いこみとは恐ろしい。
 次の機会がもしあったなら、スーさんのように「できれば敬語をやめてほしい」と伝えてみようかとも思っていたけれど、今は「相手が敬語なら、こちらも敬語にしてみようか」という気持ちになっている。これまでの自分とは違う行動様式を実践し、相手の思いをもう少し知ろうかと思う。それに言葉遣いよりも何か声をかけたりお誘いしたりといった好意を示す行動の方が重要なはず。低エネルギーな私にとって何かをお誘いするのはちょっとハードルが高いけれども、声をかけることくらいはできるはず。
 まずはそこからだ。

(2023.7.2. 加筆修正)

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