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他のものを選んでみる

 昨日「となりの雑談」インスタライブのアーカイブ配信が終了してしまった。分かっていたことだし、期間内にできるだけ繰り返し聴こうと思っていたけれど、頑張りきれないのが私のデフォルトで、今回もやはりそうだった。
 今日もインスタライブを聴いて思ったことを書くつもりだったけれど、走り書きメモの欠片しか手元にない。大丈夫かは分からないが、とりあえずやってみよう。

 メモには「冒険をする話→他のものを選んでみる」と書かれている。なんのこっちゃ。スーさんとさくちゃんの話の詳細は、あいにく覚えていない。とにかく記憶力が脆弱なのが何をするにも致命的だ。
 スーさんが「私はほっけがあれば、絶対ほっけ定食を選んでしまうのだけれど、他のものを選んだとしても大きな問題はないはず。いつもとは違う選択をする(=冒険)ことを、こういうところからやってみるといい。」という趣旨のことをおっしゃった(はず)。目新しい内容ではないかもしれない。でも、このところ選択しあぐねている件が一つあり心に留まった。そう、どちらを選んだとしても不正解はないはずだが、どちらが「より自分を喜ばせる選択」なのかが分からず、思考停止していた。

 自分の行動のブレーキは、やはり「低エネルギーの自分」だ。「自分が喜ぶこと」を選んだはずなのに、その時の体調次第ではむしろ「がっかりメニュー」や「楽しいと辛いのセットメニュー」になる可能性が高い。実際そんなことが今まで多かった。スーさんの言うところの「(データ)ソースは私」だ。
 今一人で完結するようなことなら、比較的簡単に決められる。「無理だ」とか「違う」と気づいたら終了させればいい。誰にも迷惑は掛からない。
 難易度が高いのは、約束をすることだ。例えば、誰かと会う約束をしたり、何かの公演のチケットを取ったり、旅行を計画したり、といった類。お一人様のチケットや旅行は、期待していたけれど得られなかった体験と準備に費やした時間やお金を諦めればいいだけなのだが、「なけなしのエネルギーを費やしたのに」「やっぱり得られなかった」というダメージは大きい。他者に迷惑をかけてはいない点だけが救いだ。
 そう考えると「誰かと」というのが最もハードルが高い。楽しみにしていた約束でも、自分の体調次第ではキャンセルせざるを得ない。それが一度ならまだ許されるかもしれないが、度々では信用をなくしても仕方がない。繰り返しドタキャンされたら誰だって「本当は嫌なのでは?」と思うのが自然だ。ではキャンセルせず約束を果たそうと頑張れるだろうか。もちろん、今まで極力そうしてきた。不調を堪えつつ笑顔で楽しそうに振るまう、誰にだってそんな日はあるだろう。でも当然「今ひとつ感」が拭えず、冴えないひと時に対する申し訳なさは消えない。更にひどいと、そもそも立ち上がれない吐きそう、そんな場合もある。お詫びの連絡を入れるのもやっとだ。
 そう。こんなふうに先々のことを考えれば考えるほど「約束」に対して臆病になる。

 私にとって「約束」とか「前もって予定を入れる」ことは冒険だ。躊躇なく予定を入れられるのは、かかりつけ医の診療予約くらいなのだから。多くの人にとって予定を入れることはごくありふれた日常で「何言ってるの?」とか「予定が入っていないと不安、ってことなら理解できる」という感じかもしれない。
 今「果たせないかもしれない不安と戦うことになるが、楽しいかもしれない未来」と「約束しない分不安はないが、諦めた自分の不甲斐なさを直視する未来」を天秤にかけている。毎度その時の体調や気持ちのありようで、その選択が決まるのだが、かなり力が湧いてこないと後者に落ち着きがちだ。
 ようやく決断。スーさんさくちゃんに背中を押してもらって、今回は前者を選ぼうと思う。


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