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オタク、現場を失った春の感情

 とてもとても楽しみにしていたライブが中止になった。勿論ギリギリまで検討した上で現時点での最善策を選んだ結果ということは重々理解しているし、この判断に対して反論は一切ない。ただ、やっぱりすごく寂しくてなんだか毎日に力が入らなくなってしまったことも事実で。たぶん私のような人間が今の世界には溢れているんだろうなあと思う。
 中止が決まった当初、「悲しい」「寂しい」「残念だ」と叫ぶことは応援している存在に刃を向けることになるのではないかと思ってしまい、なんとなく何も言葉にできない日々が続いた。自分がマイナスの感情を持つこと自体が一種の批判になってしまう様な気がして。
 しかし数日経つと考え方も少しだけ変化してきた。これは自分の身に降りかかって初めて知ったことだけど、心からの納得と心からの悲しみは同時に起こり得る。100%の理解と100%の寂しいもきっと矛盾しない感情で、時として感情論が正論を超えることだってある。「ちゃんと納得してるけどめちゃくちゃ悲しい」は、確実に存在する。そう思えたときにやっと私は悲しいと叫ぶことができて、聴こえてくる悲しみにも素直に共感できるようになった。
  
 機会の喪失は決して推しそのものの喪失ではない。ひとつの機会を失っただけだ。最もそのひとつが限りなく貴重で替えの利かない時間だったからこそ、こんなにも悲しくて寂しくてつらいのだけど。ただもしも今の自分にたったひとつだけ希望があるとするなら、「次の機会を待つことが出来る」ということなのだろう。もちろん本当に次があるかなんて誰にも分からないし、仮に次があったとしてもそれは今回失った機会に充当できるものでは無い。そんなの全くもって無い。でも、それでも、私はまだ「次」を待つことはできる。私と私が応援しているひとたちが此処に生きている限り。
 「悲しい」も「寂しい」も自分が今此処にいて、大切な存在もまだどこかに在るからこそ思えること。だから今日もここで叫びながら、ちゃんと食べて、除菌もして、家で出来る限りの仕事をして、今ある生活を精一杯守ろうと思う。最後の希望だけはなんとか持ち続けるために。
 ああ、寂しい。行きたかったです、横浜アリーナ…

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