読書メモ:ベアトリス・ディディエ『日記論』
要約(第二部第一章のみ)
*一部僕の言葉で言い換えながらまとめた。また個人的な関心に合わせてアクセントをつけて要約した。
*(括弧内の数字)は上記邦訳のページ数。
第二章 精神分析的アプローチ 第一章 母胎的避難所
いくつかの日記を参照しながら、それぞれについてテクストの精神分析を行う。
「日記作者にひとつの恒常的な動きがあるとしたら、それは外部から内部へむかう動きである。」(109) 日記作者は、日記を通じて社会や他者から自我という内部へと引きこもる。「こうした内部への帰還は、かなり明確に第二の誕生になぞらえられる。」(113) ある意味で日記作者は、日記への撤退を通じて生まれ直しているのである。
「日記をつけること、それはしたがって平安と内面性の隠れ家を再び発掘すること、『内部』の失われた楽園を回復することである。日記は安心感を与えてくれる場所であり、自分以外の世界、空虚、いつおそってくるかもしれないめまい、そして未知と多様性と分散への墜落に対する避難所なのである。征服された内奥とは、自己分析、既往の喚起、それにこの言説を表現するために用いたエクリチュールが回復してくれた、子宮と母性の内奥である。」(113) ポール・ブールジェやアラン・ジラールも指摘する通り、日記はしばしば「母親への激しい愛着」を示すのである。また、加えてそこに「幼少期の思い出にたいする強い嗜好が加わることもある。」(116)
日記作者には虚無への志向があり、それはしばしば死あるいは眠りというイメージとなって日記に登場する。あるいは「もっと簡単に[…]無気力という形をとる。」(118) 日記はしばしば行動へのためらいと先延ばしと記録する。日記作者は責任を持って実行すること、大人として行動することができない。彼らは優柔不断であり、幼児性を抱えている。ただし逆説的なことに、「優柔不断になるのは、まさに日記に頼るからなのである。[…]結局、優柔不断は、内的連続性と文章の持続の一形式なのだ。[…]優柔不断がこの未成熟、人生に乗り出すことの無能力を際限もなく延長するのであり、日記の存在理由のひとつはここにある。」(122, 123) 「日記作者はいまだーラテン語表現を使うならーin-fin(まだしゃべれない赤ん坊)にとどまる。すなわち彼は前‐言語期、前‐文章期にいる。[…]最後の決め手になる言葉がどうしても形をとらず、ほとばしり出ないのだ。」(126) この幼稚さという特徴は、しばしば「教育上の強迫観念の痕跡」や「教育コンプレックス」となって現れる。
「わたしはまた、この楽しみがマゾヒズム的快楽によって幾分味つけされているのではないかと考える。」(128) 毎日つける習慣の苦しみ、心身への「自己‐侮辱」には自己満足が垣間見えるのである。この受動性という日記主義の特質は、本来は表面化せずにすんだかもしれなくても、日記をつけると否応なく発露してしまう。「日記の文章には受動性、優柔不断そしてマゾヒズムがつきものである。日記作者は積極的な文章形態を持たず、構築的でまとまりのある作品を手がけない。ぶらぶらとのんきに暮らし、流れゆく時間の澱、泥、堆積物などが日ごと溜まってゆくにまかせ、それで満足する。日記作者は時間に自分の作品制作をうけ負わせる一方で、時間がそれを破壊し、破損するのを確認する。いいかえれば、自分の著述のまさに原理として、その自己破壊を採用しているわけだ。老いのテーマが重要なゆえんである。」(130, 131)
関連して、日記には女らしさと同性愛の傾向があるとも言える。そもそも日記には女性の書き手が多かった。また日記は、それ自体が書き手にとっての同性の友人として見なされることがある。「日記自体が毎や作者が合いにゆく『友』であり、打ち明け話の相手であり、ほとんど恋人になる。」(133) 「この理想的な友だちの肖像のなかに」は「母性的イメージが投射されている」。「自分の殻に閉じこもる場であり、外婚を拒否する場である日記は、近親相姦的世界である。そこでは母親への執着がかなり顕著にみられる…」(134) あるいは日記は姉妹というイメージを与えられる。
「母親や姉妹は外界から日記作者を守り、彼が根本的にナルシシズム的な経験を重ねるのを可能にしてくれる主語女神なのである。[…]日記作者はおのれの自我が分離するという感じをいつも抱いている。[…]肉体的精神的原因があって、自分を一総体として把握するに至らない。そこで自分自身の包括的イメージを得るため日記に頼るのである。たしかにその日その字に書かれるこのタイプの文章は本来分割的である。けれども日記が毎日つけられることによって生じる連続性は、安心を与えてくれる。日記はナルキッソスにとって一種の鏡であり、一総体として自分を把握し、それによって細分化された肉体の幻覚から逃れるための手段なのである。」(136,138) つまり日記は、分裂した心身を統一的に把握させ、ラカンの鏡としての役割を果たすのである。日記は作者の作り出した分身であり、その意味で他者ないしまなざしなのである。
日記作者が噓をつかずに誠実に日記を記すのは、まさに日記が鏡だからである。ただし「日記には常に語られることのない部分がある」のであり、彼は誠実さという幼少期からの原則と、私生活の秘匿という礼儀の原則とを同時に満たす。その点で日記は写真であるというよりも、現実を簡略化することでより上手に統一感と心地よさとをもたらす、肖像画なのだと言ったほうが適切である。
(まとめ)「日記作者のいささか無定形なエクリチュールは、次の二重の義務にこたえる。すなわち作品をつくらず、成年に達しないでいること。だがそれにもかかわらず書き、日記を避難所や鏡として使い、出生以前の生もしくは生の初めの数年間の状態である幸福と無責任と統一性と安全の状態を、日記のなかで回復すること、である。」(143)
コメント
基本的に小説を書くような人間の日記に絞って議論を進めていることに留意が必要。論理もやや荒く、日記の暗くナルシスティックな面に焦点を当てすぎている。
とはいえ日記の退行性が死・眠りに近いものであるという指摘には深く頷ける。どれも静かなる虚無への志向だ。その特性が優柔不断さ=幼児性へと接続され、マゾヒズムへと結びつけられるのもまた面白い。
日記をつけたいという欲望は複雑な動機が絡み合ったものだ。日記作者は自己の統一を求めているかもしれないが、現実の記録だったり、書き遊びだったり、多かれ少なかれそこには必ず他の目的もある。健全に日記をつけるためには、自己統一欲に引っ張られすぎないことが大切になってくるだろう。自戒。
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