日記内における日記への言及:23.6.23.-24.2.19.

 いつの間にか百本以上日記を書いていた。この媒体で日記をつけ始めてから常に念頭に置いてきたのは、一つには「日記とは何か」という問いである。今一度僕が日記について言及している部分を引用し、考え直してみる。


23.6.23.
 瑣末な出来事と些細な印象のたくさんがここから溢れている。それで良い。日記には沈黙がある。

23.6.28.
 日記は事実の鏡ではない。まずもって事実を完璧に反映することは不可能である。また書き手はその日経験した事実を記録するときに、さらにその事実に対する反応を記しもする。
 ところで書き手がそうした反応を書くとき、その事実を経験した当時の感情に触発され、日記を書いている「今」の思いを記し始めることが往々にしてある。このとき日記はほとんどエッセーとなり、もはや日記という体裁を取る意味はない。しかし不思議なことに、その「今」の思惟は、日付のラベルを張られた瓶の中に封じ込められていると言える。なぜなら書いている「今」も「その日」のうちだからである。日記は「今日」と「今」とをさらに大きな「今日」の中に押し込める。日記とエッセーはたしかに近い。それでも頭尾どちらかに打たれた日付が決定的な分水嶺となる。日記は、日付に支配されている。

23.6.29.
 その後の一日について、僕は今から沈黙できる。
 買った野菜はどう調理したのか? 誰と何を話したのか? 何を読んだのか? そもそも何かを読んだのか? 雷に不意をつかれたこと。何度も通ったことのある道に隠れていた花屋。暑い夜の雨に浮かぶテールランプ。クーラー。ボディソープ。虫。Anastasia Lyutova「Love you madly」、性的なプライバシー、上記には匂わせもしなかった、今後数年の人生に実際的影響を及ぼす苦しい出来事とそれに対する僕の反応。
 はぐらかしたいわけではない。単に日記には沈黙があるのである。一日の本当の全てを書ききることはできないし、書けたとしても書かなくてよい。僕は今、正しさなどを抜きに、この日記にいかに不誠実に向き合うかについてばかり考えている。

23.7.4.
 日記はその一日を記録をする。あるいは書いているときに考えていること——書きたいこと——を書くのだが、その思考はその日の日付とともに句点を打たれることで、「その日に考えたこと」として行為化され記録される。日記は日付に支配されている。
 現実は複雑であり、全てを記録しきることはできない。そんな複雑な現実を素材とする日記が唯一設けた枷が日付だ。全てを書く必要はないのだ。なぜなら日付は、「書かれるべきもの」に注意を配りつつも、同時に「いかに書くか」を厳格に監視しているからだ。日付が文節する24時間は、線であるより以前に、記録という点が移動できる範囲を表している。

23.7.8.
 自罰感に苛まれる。日記を書いて多少落ち着きを得たが、そのこと自体に不健康さを感じるのでここで筆を置く。

23.7.15.
 日記のスタイルがまだ固まっていないのを我ながら感じる。それはもちろん「文体」の問題だ。良い感じに書けたな、と思うときもあるが、筆致の強張りを覚えながらむりやり書きなぐってしまうこともまだ少なくない。もっと肩の力を抜きながら書けないかしら。書きたいことを書くというただそれだけのことがどれほど難しいことか。
 そして、この日記を書きながらずっと思っていることには、たとえ書きたいことを書けたとしてもそれだけではやはりいけないのだ。自分本位になってはならない。なぜならこの日記は、その実あなたに対して開かれたブログなのだから。ディディエは日記作者について次のように指摘している。日記作者は日記を誰にも見せないものとして秘匿し自らのうちに閉じこめるが、同時に、いつかその日記を誰かに見られたいとも望んでいるのではないか、と。この無意識の欲求を見過ごしてはいけない。見せかけのナルシシズムに閉じこもってはならない。テクスト、「書かれたもの」は、常に何者かに対して開かれている。言葉は常に他者を持っている。
 ところで、読者という他者を、あなたを想定しながら、それでもこのnoteがエッセイではなく日記を名乗っているのは、それは僕の日記へのある種のフェティシズムに起因しているが、そこには大切な価値があるのではないかと予感している。

23.7.19.
日記をどう書くべきかについて考えていたら、硬直してしまって、何も書けなくなってしまった。この文は次の日の正午に書いている。

 幼馴染から写真が送られてきた。地元の小さな雑誌に写っていたのは僕たちの小学校の同級生だった。当時から足が速かった印象があるが、そのままよろしく頑張ってきたようで、グラウンドをバックに爽やかに笑っている。相変わらず背が高い。しかし体はきっちりと引き締まっていて、タイトなユニフォームから腹筋が硬く浮かび上がっていた。僕にはない溌剌さがあった。

 たとえばこれは個人的な日記兼メモだが、こうしたある感触の描写をいくつも連ねる日記は、本当に僕が書きたい日記なのだろうか。
 日記には何を書いても良い。けれどあまりにアイロニカルすぎるのも、描写が行き過ぎているのもどうかと思う。それはたとえ原理的に日記であったとしても、感覚からしてあまりに日記離れしている。
 一方で、日常の中でささくれだっていた、琴線に触れた物事こそ文章化したいという思いもある。悩む。

23.7.28.
 日記に「勉強せねば」と書いたことがモチベーションの種となった。だらだらとではあるし、集中も欠いてはいたが、フランス語をいくばくかこなす。
 僕の日記を書くのは必ず僕だ。しかし書かれた日記、僕の手によって生み出された文章は僕そのものではない。それは僕の外部に産まれる。僕の産んだ僕についての記録は、しばしば僕の外部から僕を規定し返す。そして日記作者は、その再規定を改めて記録する。

23.9.28.
 話は変わるが、今日三人目のタンデムと会った。大人しめの一年生の子で、深い話はせずともリラックスして話せていい感じ。公園で喋っていると数十分に一回は誰かに声をかけられるのが日本とは違って面白い。煙草を吸いながらタンデムの子と話していたら、いかにも目のキマったハーレークイーンみたいな女の子に「それウィード? ちょうだーい!」と尋ねられた。違うよと返すとバイバーイと笑って消えた。スイス最高。ここでは大麻は違法だがかなり普及しているようだ。それも最高。けれど今後この日記でウィードに言及することはないだろう。日記には沈黙がある。

23.10.22.
 文体が浮ついているのを感じる。日記とエッセーの境界が曖昧になってきているからだ。あらゆる権限が作者に帰属するエッセーに対して、日記には人間以上に強い管理者がいる。時間である。日記作者は日極で何かを「書かなくてはいけない」。書きたいことや書くべきものから天下るように描写していくエッセーとはまるで異なり、日記作者は自身の完全な外部から要請されることで初めて筆を取る。そこに意味はない。あるいは書きながら、書くことで、書いたから生まれる。

24.1.13.
 日記の特性についてしばしば考える。それは誰にも見せないものだと思う。たとえ見つけられることを期待していたとしても。だからブログは日記ではありえない。それでもこの日記がそう銘打たれていることには、きっと意味がある。僕はとにかく書かなくてはならない。文体がどこまでも浮ついていくとしても、その宙吊りが確定されるのは書きながらでしかあり得ない。日付に権利を委ねて、書くことを義務とすること。動機を外注すること。それが日記のもう一つの機能である。

24.2.3.
 このnote、日本人留学生の大半にバレているらしい。女子会で話題に上っているという噂を聞きつけた。誰にも知られていないつもりでいたので衝撃で卒倒してしまった。
 それでも書き続ける。書く内容も変えない。日記は読者を想定しない。読者はあらゆる作者を殺し得るが、日記作者はあらゆる読者の存在を忘却する。そのつもりでいる。その前提を裏切られることへの期待が、すべての頁の底に沈んで駆動しているのだけど、僕ら日記作者はその構造を認識することができない。日記には欺瞞がある。期待と期待への欺瞞があって初めて日記は日記として成立する。その危うさは秘密の色気に似ている。

24.2.8.
 あらゆるテクストには書けないことがある。同様に日記にも沈黙がある。しかし本来日記は、もっとも何もかもを吐露しやすい場ではなかったか。書けないことが増えていったとき日記は日記でありうるのか。その問いに是と答えるために僕はこの文章群を日記と名付けているのだろう。語れないものの一つとしてたとえばポリティカルコレクトネスが挙げられるが、あらゆる言説が制限されたときでも僕たちは何かを語り得る。言葉が狭く閉じ込められてもその深度へと無際限に沈んでいくことができる。それが言葉だから。だから日記は、いくら語れないことがあろうと書くことができる。語れないことの中をかいくぐるようにして日記を書き続けることは、翻って日記という領野そのものを広げていくことに繋がる。僕にはそうした期待があるのだと思う。その問題意識と向き合うためには、日記を書くときに、それが日記的かどうかをいったん忘れる必要がある。とにかく書くということ。誤りを恐れずに書く。断言していく。

24.2.17.
 日記を書くにあたって、いつも、書くときに書きたいことだけを書くように心がけている。

24.2.19.
 日記の在り方の一つにその一日を詳細に記録するというものがある。けれど一日の豊かさを紙幅の上に完全に表象しきることは二重に不可能だ。世界は言葉で完全には再現できない。また書き手は書きたいことしか書くことができない。そこでもう一つのやり方として、日記を書くそのときに考えたことや思い出したことを書くという方法もあり得るだろう。その思考は日付でラベリングされる。「その日に書いた」という記録がその日の日記のタイトルとなる。これはこれで日記だと言い得よう。では、結果として一日たりとも一日の記録を残さなかった日記は、それでも日記的だと言うことができるだろうか。わからない。僕がどれだけ一日を振り返りたいと思うだろうかもわからない。僕は日記をつけるにあたって、日記性という概念について考えながら書くことを決めている。日記について考えることがまだまだ無数にある。


 こうして振り返ってみると面白いくらいに思考に進展がない。けれど一つ転換を見出せるとしたら、「日記は読者を想定しない」という命題を巡って、「だからこのブログは日記ではない」という地点から「しかるにこのブログを日記と銘打って、日記の領野を拡張しよう」という地点に移行した点だろう。事実文体は日に日に僕の自我の中に引きこもるかのような空気をまとってきている。正しい転換だと思う。

 その他に僕が大切にしていること。一つ、日記の沈黙性。日記には二重の沈黙がある。現実は書ききれないし、書き手は書きたいことしか書けない。ブログが日記たり得るとしたらこの沈黙が一つの理由となる。読者の存在により書けないことができたとしても、そもそも日記には書けないことが無数にある。その差は些細だと見なし得る。

 二つ、日記の時間性。日記の最大の特徴は日極(ひぎめ)という外部性の混入である。日記を更新するリズムは僕の外部にある時間が規定する。一度日記をつけると決め、そのルールが次第に僕を上回ってゆく点、つまり動機が外注されてゆく点に日記のマゾヒズムがある。

 三つ、日記の物質性。言葉は書かれた時点で人の手を離れある種の物質となる。それは日記も例外ではない。ただし日記が特異であるのは、物となった日記が次の日の僕とまた関わることで、新たな日記にその痕跡を残していくところだ。日記と日記作者とは、ある種の弁証法を織り成している。

 日記についてはまだまだ考えることがある。が、その前に書かなくてはいけない。とにかく書く。書く中で何かが浮かび上がっている。僕はそれを待ち、また書き、待って書いてを繰り返し続ける。日記をつけていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?